今、ご一緒にお聞きした聖書には、キリストのもとに助けを求めてやってきた二人の人物のことが書かれていました。そのひとりはヤイロという人。この人は、神を礼拝するための建物である会堂を管理することを仕事としており、また建物の管理だけでなく礼拝の奉仕もする会堂司でした。会堂司には他にも重要な務めがありました。会堂はその地方の裁判所としても用いられていたこともあり、会堂司は裁判官の役割も果たしていました。
そうした働きを担っていました会堂司は、人々から重んじられる社会的地位にあったといえますし、またそれだけにプライドもあったのではないかと思います。そのような会堂司のヤイロが、キリストの足もとにひれ伏して助けを求めたのです。重い病の娘のためにプライドも捨ててなりふりかまわずに助け求める父親の姿がここにあるといえます。そのようなヤイロの願いを聞き入れたキリストは、一緒に娘のところに出かけることになります。その途中でもう一人、キリストに助けを求める人物が現れたのでした。
それは12年の間、長血をわずらっているという病に罹っていた女性でした。12年間も出血が止まらない、それだけでも大変辛いことですが、苦しみはそれだけではありませんでした。この女性は、社会から排除されるという苦しみをも負っていたのです。なぜそうなったかというと、この類の病気を持つ者は汚れた者とみなされ、その病が治らない間は、他の人々と一緒に生活をすることについてもいろいろと厳しい制限があったからです。たくさんの人が集まる場所に出入りすることも許されていませんでした。
この女性は、更にまだ苦しみが重ねられていました。それについて聖書は「多くの医者から、ひどいめにあわされて……」というふうに、お医者さんがここを読んだら、気を悪くするようなことを記しています。とはいいましても、医者が皆この女性にひどいことをしたという意味ではありません。当時の医者に対する世間の評価というのは、最高の誉め言葉と憎しみとの間を揺れ動いていたと言われています。つまり、治療がうまくいった時には――あの医者は素晴らしい……と誉め言葉でもてはやされた一方、治療がうまく行かなかったときは、高い費用を請求されることもあり――とんでもない藪医者だ……とさんざん悪口を言われたのです。同じひとりの医者について、素晴らしいと言う人もいれば、藪医者という人もいた。それだけ、当時の医療というのは当てにならないものであったということです。
それでも、この女性は何とか治りたいという一心で次々と医者にかかり治療にお金をつぎ込み続けた。そのために経済的にもどん底に陥ってしまっていたのです。そのように幾つもの苦しみが重なっていた女性が、助けを求めてキリストに近づいてきたのでした。
このヤイロと女性とでは、社会的な身分も生活の様子もまったく正反対であったと言えますが、二人にははっきりとした共通点があります。それは、二人とも万策尽きて、何とか助けてもらいたいという、強い願いを持ってキリストに近づいて来たということです。そのような二人の心にある願いをキリストはお認めになり、奇跡としか言いようのない力を働かせることになります。
第6章を読み進めていくと、キリストが郷里であるナザレに行かれたことが記されています。そこには、(5、6節)こう書かれてあります。
そこで、何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは何も力あるわざを行うことができなかった。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
キリストは力あるわざを行わなかった、というのではなくて「力あるわざを行うことができなかった」と聖書はそう記しています。キリストであってもみわざを行うことができないという状況がある。その状況をつくっているのは人間の不信仰だというのです。そのことと丁度逆のことが、キリストに近づいてきたヤイロと病気の女性の物語には表されているのです。
さて、この病気の女性がキリストの身につけている服に触ろうとしてキリストに近づいてきたとき、この女性には確かに信仰があったといえます。しかし、その信仰には良い面とそうではない問題のある面との両方がありました。宗教改革者カルヴァンは、キリストの身に着けている「衣にでも触れれば、私は救われる」という女の信仰ついて、そこには、悪徳と過ちが詰まっていると随分厳しいことを言っています。それだけに、我々はうっかりこの女の信仰の真似をしてはいけないという注意を呼びかけているわけです。ではこの女性の信仰のどういう点に私たちが真似をしてはいけない過ちがあったのでしょう。
先ほど触れましたように、この女性には、病だけでなく経済的なことも含めて幾重にも苦しみが重なっていました。そのような女性にとって「神の国の福音」だとかイエスが「救い主」であるといったことはどうでも良かった。ただ病気を治してもらえさえすればそれで良かったのでしょう。しかし、病気のため汚れた者とされていた手前、正面からイエスにお願いする勇気がない。それなら服にさわらせてもらうだけで治るかもしれないと女性は思った。この点をカルヴァンは問題だと言うのです。キリストとしっかりと向き合うことをせずに、服を触るだけで願いが叶えられる。日本にも、手でさすってお参りすると病気にかからないといったご利益のある岩だとか彫刻の類がたくさんあります。そうした信仰のあり方をわざわざ批判する必要はありませんし、ましてや攻撃するようなことは良くないことです。しかし、そうした信仰のあり方をクリスチャンが真似をすることはないし、真似をしてはいけないのです。
では、今度はこの女性の信仰の良い面とはどういうものであったのか。それは、イエスには自分の病気を治す力があるということを疑わない、素朴ではあるがまっすぐな信仰であったということです。私たちの多くも最初はそういう素朴な信仰から始まる場合が多いのではないでしょうか。最初から「罪の赦し」だとか「十字架の贖いによって義とされる」だとか、そういうことを求める人はいないと言っても良いでしょう。「神さまにお願いすれば何とかしていただけるのでは……」と、そういう素朴な願いから信仰を意識する。そういう人が多いと言えましょう。そのような信仰には、確かにカルヴァンが指摘するような問題点が含まれていることも少なくないのです。しかし、その問題や間違いを含みもっている信仰をキリストは「あなたの信仰は間違っている、出直してきなさい……」と退けたりはならないのです。少なくとも、その信仰がキリストにむけられているならば、それをキリストは受けとめてくださるのです。
もう一つ更に重要なことに移ります。キリストによって病が癒された奇跡の物語は珍しくないのですが、今回の物語は、癒されてから後の記事が長いという特徴があります。そこに大切な意味があるからです。
先ずキリストは「だれがわたしの衣にさわったのですか」と群衆の中にさわった人を探し始めます。すると、弟子たちは「こんなに大勢の人が押し寄せているのだから、誰が着物に触ったかなんでわかるわけがないでしょう」と言う。しかしキリストは探すのをおやめにならないのです。このときの群衆のなかに自分に触った人を探すキリストの姿は、印象深いものです。人間の方から自分を助けてくれそうな神さまを探すというのではない。神の御子であるキリストの方から探し出そうとしておられる。このキリストの様子を知った女性がとった態度を聖書は詳しくこう記している。
彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
もし、この女性が病気がいやされた時に――ああ、これで助かった……と自分を探して下さっているキリストそのまま残してさっさっとその場から立ち去ってしまったとすれば、それこそ最後まで問題ある悪徳の信仰のままで終っていたでしょう。しかし女性は立ち去らなかった。そして恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏したのでした。それをごらんになったキリストは、女性にこう語り掛けられました。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」。
キリストは「娘よ」と呼びかけておられます。先ほど、この奇跡の物語は病が癒された後のことが長く書かれていると言いましたが、そこでキリストは結局なにをなさったのかといえば、それは女性との一対一の出会いを持たれたということです。そして言葉を語りかけたということです。そのようにして、キリストは女性の問題ある信仰を、神を信じる信仰にふさわしいものへと引きあげられたのです。
個人的なことを申しあげることを許していただきたいと思いますが、私がキリストを信じるきっかけをつくった一つが、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」という言葉でした。「あなたの努力があなたを救った」とか、「あなたの正しい生き方があなたを救った」というのではない。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聴いたとき、私は不思議なものを感じました。
またキリストは「わたしがあなたを救ってあげたのだ」とは言われない。「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。そこには何一つ押しつけがましい、上から目線の強引な信仰の勧めは微塵もありません。しかし、それでいて確かに私は、このキリストの言葉を聴きとったとき―ーこれなら、私でも救っていただくことができる、とそう思いました。
◆
こうしてキリストと向き合うことで、それが出会いとなり、そのキリストからみことばを語りかけられた女性は、その後どうなったのか。そのことを聖書は何も記してはいませんから想像するより他にないのですが、間違いないことは、この女性はやがて死んでいったということです。病は癒されてもいずれは死ぬことに違いはありません。この女がどのように最後を迎えたのかはわかりませんが、最後は病気で死んだということは大いにあり得ることです。その時、病床のなかで女性は何を考えたでしょうか。――ああ、あの時はイエスさまに癒していただけたけれども、今回はそうは行かない、残念だ、悲しい……と思ったでしょうか。そんなことはなかったと思います。
女性は、死を迎えるその時まで、何度も自分を探し出し出会ってくださったキリストを思い出し、キリストが「娘よ」と自分に語りかけてくださった言葉を思い起こし続けたに違いありません。キリストが「安心して行きなさい、苦しむことなく、健やかでいなさい」と語りかけてくださった、その言葉を病床のなかで繰り返し思い起こしたでことでしょう。そうして女性は慰めと平安に満たされていったに違いないのです。なぜ、そんなことが言えるのか。キリストの「安心して行きなさい」というこの言葉は、病によって打ち消されてしまうものではないからです。死によってすらも打ち消されてしまうことはない。なぜか、人間の言葉ではないから。人間を救うために十字架にかかってくださった救い主のみことばだからです。
コロナ禍のため、未だに聖餐を再開することができないでいます。仮に、聖餐を祝えない状況がこれから先、10年、20年と続くとしても聖餐卓を片付けてしまうということはありません。この聖餐卓そのものが、聖餐の恵みを証しするものとなっているからです。そして、聖餐卓は目には見えませんが今ここにいて下さるキリストの存在を、キリストの臨在を表すものとなっているからです。この聖餐卓の真ん中にお立ち下さっているキリストが皆さん一人ひとりに対して語りかけてくださっています。
「安心して行きなさい、苦しむことなく、健やかでいなさい」と。
(2022年2月6日公現節主日礼拝)