会堂司でありましたヤイロは、社会的にみれば、それなりの高い身分であった人でした。ですから街を歩いていれば、すれ違う人々からは恭しく挨拶を受ける、そういう人であったと思われます。ヤイロ自身も会堂司という職務について誇りをもっており、またプライドも持っていたことでしょう。そんなヤイロが、なりふりかまわず、キリストの足元にひざまずいて懇願して言いました。
「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください」
このようにキリストに願ったヤイロの言葉からは、娘の病気が極めて重篤なものであり、生きるか死ぬか一刻を争うほどの状態であったことが伺われます。それだけに、キリストが願いを聴きいれて、娘のところに行ってくれるということになった時、ヤイロは――イエスさまが来てくれれば、娘は助かる……と喜んだことでしょう。そして一刻も早く、娘の待っている家にキリストをお連れしようと道を急ぎました。
ところが途中、思いもよらぬことが起こりました。12年もの間、出血の止まらない病に苦しんでいた女性がキリストに近づいてきたのです。この病の女性は、キリストの服に触れれば、病が癒されると信じて、キリストに後ろから近寄り、その服に触れたのでした。キリストの服に触れた女性は、期待通りに癒されたのでしたが、それで事は済みませんでした。キリストが自分に触った人のことを探し始めたからです。キリストのその様子を見た女性は、恐れおののきながらキリストのみ前に進み出て、ありのままを話したのでした。それに耳を傾けておられたキリストは、女性の語る全ての話を聞き終えると、こう語りかけて言われたのでした。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかにいなさい。」
こうしたキリストと女性とのやりとりを見ていたヤイロは、娘のことが気がかりで、どんなに焦る思いを募らせていたことでしょう。ヤイロにしてみれば、一刻も早くキリストを娘のところに連れて行きたいのです。それなのに、途中で割り込むように病気の女性がキリストに近づいてきた。そのために足止めを食ったような思いであったことでしょう。そして、この後、再びヤイロとその娘の物語が再会します。
今、私たちが聴いていますこの聖書の物語について、ある聖書学者は、これはサンドイッチのような構造になっているということを指摘しています。つまり『ヤイロとその娘の物語』の間に挟まれるようにして『出血の止まらない女性の物語』があるというのです。このサンドイッチのような物語ということを先ず、注目をしておきたいのです。
サンドイッチとは、説明するまでもなく薄く切った食パンの間に卵やハムを挟んだ食べ物のことです。そして、これもいうまでもないことですが、サンドイッチは、パンの間に何を挟むかによって全く違った味わいの食べ物になります。食パンは同じでも卵を挟むか、ハムを挟むかで全く違った味の食べ物になる。
「ヤイロとその娘の物語」は、いわばサンドイッチのパンで当たるわけで、そこに「出血の止まらない女性の物語」が挟まれることによって、ヤイロとその娘の物語は、大きく素晴らしい変化を遂げるものになっているのです。
もし、出血の止まらない女性の一件が起こっていなければ、キリストはヤイロの娘が息を引き取る前に到着して、娘の病をいやされたことでしょう。そうなれば、ヤイロとその娘の物語はキリストの「いやしを語る物語」となっていたことでしょう。しかし、出血の止まらない女性の物語が間に挟まれることによって、ヤイロとその娘の物語は「いやしを超える奇跡的なみわざ」を語る物語になっていったのです。
私たちの生活においても、ある一つの問題が解決していない間に、別の問題が割り込むようにして起こってくることがあります。問題や課題がサンドイッチのように重なってしまうことがある。そういう時、私たちは――やれやれ、まだ、問題が片付いていないのに、また新しい問題が起こってきた……というふうに心を重くするものです。問題が重なることは確かに嫌なことです。しかし、現実には、私たちの生活には、あの問題、この問題と、問題がサンドイッチのようになることが多いといえましょう。ですから、そのことを嘆いてみても始まらないということもいえるのです。
そうした私たちに、今朝の聖書の物語は、間に割り込むようにして起こってくる問題にも何か意味があるということを暗に示してくれているといえます。そのことを踏まえたうえで、ヤイロの物語の後半部分に今朝は注目をして行きます。
出血の止まらない女性の一件で足止めを食っているヤイロのところに、ヤイロが恐れていた知らせが届きます。
「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生(イエスのこと)を煩わすことがあるでしょうか」
この言葉にヤイロは絶望してうなだれたことでしょう。では、キリストはどうであったのか、その様子について聖書は「イエスはその話を側で聞き」と記しています。この同じ箇所を口語訳は「イエスはその話している言葉を聞き流した」と翻訳しています。これはどういうことか?
「イエスはその話を側で聞き」ということは「お嬢さんは亡くなりました」というこの悪い知らせ、悲しい知らせ、辛い知らせをキリストがヤイロの側で一緒に聞いていてくださったということです。同じことが私たちの場合にも言えます。私たちにとっても辛い知らせを聞かなければならないことがある。それを私たちは独りで受けとめるのではない。キリストが側で一緒に受けとめてくださるのです。それはありがたいことです。
では「イエスはその話をしている言葉を聞き流した」とはどういうことか。娘が死んでしまったという知らせを聞いた時、ヤイロは目の前が真っ暗になったことでしょう。その知らせを側で一緒に聞いていたキリストもまた、目の前が真っ暗になったのかといえばそうではなかった。キリストは、悪い知らせ、悲しい辛い知らせに呑み込まれて目の前が真っ暗になることはなかった。だから「その話を聞き流した」のです。私たちの望みを打ち砕き、目の前を真っ暗にさせてしまうような話をキリストは聞き流してくださる、これは私たちにとって心強いことです。そしてキリストはこうお語りになりました。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
この言葉をキリストは、今も厳しい現実を前にしている者に対して語りかけてくださっています。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
私たちは、誰かから「恐れるな」といわれても恐れてしまう。しかし、キリストが「恐れるな」とおっしゃっていてくださるのですから、できうる限り、自分の心を恐れることに用いるのではなくて、信じるために用いる。そのことに努力したいと思います。
キリストがヤイロの家に着いたとき「人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしている」と記されています。これは、いわゆる葬式を盛り上げるための「泣き女」のことが語られている。当時、ユダヤ人の社会では葬儀が行われるときに、どんなに貧しい家でも最低、笛吹き男二人、泣き女一人を雇ったといわれています。ヤイロは、それなりの社会的な地位のある人であったから、たくさんの笛吹き男と泣き女がこのとき葬式を盛り上げようとしていたのです。しかし、そんなことをいくらやってみても悲しみの現実を変えることはできません。
何一つ、悲しみの現実を変えることのできない騒ぎをしている人々をキリストは追い払われました。そして、娘の手をとって「タリタ・クム」と言われました。「少女よ、起きなさい」と言われたのです。するとヤイロの娘はすぐに起き上がり歩き出しました。
この「タリタ・クム」という言葉は、キリストが実際にお語りになっていたアラム語の発音をそのまま書き表したものです。新約聖書はギリシャ語で書かれていることは何度も申しあげていますが、勘違いのないようにしたいことは、キリストご自身はギリシャ語ではなくてアラム語をお語りになったということです。この実際にはアラム語で語られたキリストの言葉を、福音書を書いた人はそのまま伝えたかった。そこで、「タリタ・クム」という、キリストの口から出たアラム語の音声をそのまま標記したのです。
ところで、「少女よ、起きなさい」という言葉は、考えてみれば何でもない、私たちが日常的に使う言葉です。私たちの家庭でも朝、子供が起きてこない時には「○○ちゃん、起きなさい。学校に遅れるよ」と言う。それと同じ言葉です。しかし、この言葉は、病の癒しを超える神のみわざを覚えるための言葉となりました。
このヤイロの家で起こった出来事以来、教会では「アーメン」や「ハレルヤ」と同じように、「タリタ・クム」は、どこの国にいっても翻訳されずにそのまま語り伝えられる特別な言葉になりました。それはなぜかといえば、死という人間にとって最も恐れるべき、また悲しみをもたらす現実をキリストが打ち払ったときに語られた言葉であったからです。
だからといって、私が亡くなった人に向かって「タリタ・クム」と言っても、死んだ人が生き返ることはありません。キリストにしても次々と死んだ人を生き返らせたわけではない。ヤイロの娘を生き返らせるという奇跡は、死を打ち破ることのできる命というものが本当にあるのだということを証明するための「しるし」だからです。「タリタ・クム」という言葉も、それは、死に打ち勝つ命を想い起すためのしるし、シンボルとなる言葉なのです。
聖書に記されている死んだ人間のよみがえりの記事は、これは精神的な意味を表すものだとか、たとえ話として理解されるものだと言う人がいます。そういう人にとっては、ヤイロの娘が生き返ったということも、それは父親の心の中に娘が生き返ったというように理解する。しかし聖書はそういう書き方はしていないと思います。ですから娘が歩き出したときに、その理由について聖書は何を書いているかというと「彼女は12歳であった」からと拍子抜けするような当たり前のことを書いています。
また、この物語のしめくくりともいえる言葉についても、キリストが「少女に食べ物を与えるように言われた」という、宗教的な意味は何もなさそうな言葉を記しています。こうしてこの福音書はヤイロの娘が生き返ったことを淡々と物語っているのです。ヤイロの娘が死から呼び起こされたという事実が実際にあったからこそ、飾り立てるような文章は何も必要なかったのです。
死という人間にとって最も深刻な闇に対して勝利された、命の光であるキリストの輝きを宿しているともいえる「タリタ・クム」というこの小さな言葉を、私たちの宝のみことばとして心に刻みたいと思います。
(2022年2月13日公現節主日礼拝)