待降節礼拝説教「荒れ地に道を用意する」   

イザヤ書 第40章1~3節    2023年待降節 

1、荒野にいるすべての人のために
 この一年を振り返るとき、世界中のあちこちで「荒野」が広がったことを思います。戦争による爆撃やミサイルによって今も荒野が広がっています。荒野の広がる理由は人災に限りません。今年も、ひとつの街を崩壊してしまうほどの大きな地震がありました。また洪水がありました。その後には大きな荒野が残りました。そうした荒野にされた大地の中にいる人々について今朝の聖書は語りかけています。「慰めよ」
 荒野は人の心のなかにも広がります。病気や老いによる痛みや不自由によって、孤独による不安によって。こうした荒野のなかにあるすべての人々のために語りかけられている言葉に先ず耳を傾けましょう。
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」 

 ここで「わたしの民を慰めよ」と語られている「わたし」とは神です。その神は、地上の全ての部族に祝福をめぐり広めるために、アブラハムを祝福の担い手として選び召されました。その神が「わたしの民を慰めよ」と語られています。またこの神は、この世を救うために、世の罪をとりのぞくためにキリストを送ってくださった神でもあります。

 それゆえに、今ここでは、民族の違いだとか宗教の違いだとかは問題になりません。荒野にいるすべての人のために神はお語りになっているのです。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」

 イザヤ書の預言者が神の言葉をとりついで語った時、慰めの対象としてイスラエルの民を見ています。しかし、キリストが来てくださっている今、このみことばの放つ光は、より強く広い範囲を照らすものとなりました。つまり、今や慰めの対象は全ての人に及ぶものとなっているのです。このことを先ず心にとめておきましょう。

2、荒れ地に道を用意せよ

 荒野にある人々が、神による慰めを受け取ることができるようになるために。そのために聖書(預言者)は次にこう語ります。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために」
この言葉を勘違いして聴き取らないために一つのエピソードを紹介します。スイスのある牧師による書物に書かれていた話です。

 スイスのある村に、年をとった道路工夫がいました。この工夫は、来る日も来る日も、どんな天気の時も忠実に自分の務めを果てしていました。夏には、雨が降って道のあちこちに水たまりができると砕石でそこを埋めました。冬には、朝早くから学校に通う子供たちのために、道に降り積もった雪をどけて、歩けるように道をつくってあげました。
 こういう話を聞けば誰もが、この道路工夫のしたことは、人々のために、歩きやすいようにと道を用意する尊い奉仕であると思うでしょう。そして「荒れ地に道を用意せよ」ということを、この工夫がしたように、隣人のために道を備えてあげなさい、というふうに早合点してしまいやすいのです。
 その結果、たとえばクリスマスの季節であれば、ひとりでも多くの人がクリスマスの意味を知ることができるように、クリスマスの集会を案内し、そこに集うように呼びかけることが、道を用意することだと考えます。それは大切なことです。しかし、そういうことをイザヤ書の預言者は語っているのではありません。そのことを知るために、先ほどの道路工夫の話しを続けます。

 あの道路工夫は、一生の間、道の穴を埋め、雪の中に道を作るなどして人々のために道備えをしました。しかし、このイザヤ書の言葉を聞き入れることをしませんでした。そして生涯の終わりまで、神のために道を用意することをしなかったのです。そのために、道路工夫の生活には喜びがなく、頑固で家族に対してもやさしさよりも厳しさが先に立ち、自分の生活も一緒に暮らす家族にとっても暗い影を落とすものになってしまっていました。
 この道路工夫は、来る日も来る日も、人々のために道備えをしました。しかし、イザヤ書の言葉は「人々のために道を用意せよ」とは言っていないのです。そうではなくて「私たちの神のために道を用意せよ」と言っているのです。

 あの道路工夫が、道行く人のために夏も冬も道を備えてあげた行為は、称賛されるべきものです。そのことにまちがいはありません。しかし、道路工夫その人の心に神を信じ受け入れるための「主の道」を備えることはしなかった。工夫の心は、降り積もった雪で閉ざされた道のように、神に対して閉ざされたままでした。そのため、この道路工夫は神による慰めを受けることができませんでした。

 もう一度確認をしておきましょう。このイザヤ書の言葉は、私たちが誰かのために道を用意することを求めているのではありません。神さまのための道を用意するのです。その神さまのための道をどこに用意するのかというと、それは自分自身の心にです。荒野・荒れ地となってしまう私たちの心に、しっかりと神さまのために、神が送ってくださっているキリストを迎えるための道を用意する、そうしてこそ「慰めよ」と語られていた神の慰めを受けることができるのです。

3、最も深刻な荒野
 荒野・荒れ地のような心と聞くと、いかにも荒れ果てた、潤いも明るさもない暗い心を想像するかもしれません。しかし、それよりも更に深刻な荒野の心があることをイザヤ書の背景から読み取ることができます。イザヤ書第40~55章は、旧約聖書学では第二イザヤと呼ばれていて、捕囚の民に向けて語られたものとされています。その時代、イスラエルの民はどういう生活を送っていたか。

 紀元前6世紀、イスラエル王国はバビロニアによって滅ぼされ、神殿も破壊されてしまっていました。そして、民の一部は、故国から連れ出されて、異国のバビロニアで捕虜となりました。これがいわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。
 このバビロン捕囚によって、イスラエルの民は外国の奴隷になって酷い苦しみを受けていたかというと実はそうではありませんでした。捕虜、捕囚と聞くと、手足に鎖がつけられていたり、収容所や牢獄に入れられていたりということを連想するかもしれませんが、そういうことはなかったのです。
 住むための土地や家も与えられ、結婚して家庭生活を営むこともできました。宗教行事すらおこなうことが許されていたようです。ですから、その生活の様子は決して荒れ果てていたわけではなく、むしろ混乱もなく、落ち着いた、豊かさすら感じることのできる生活を人々は送っていました。そうした人々に対して預言者は「道を用意せよ」と叫んだのです。それはなぜか、人々の心の状態が荒野であることを見ていたからです。

 ならば、荒野となっていた人々の心とはどういうものであったのか。それは「神は生きておられる」ということに対して、喜びも恐れも感じない無感覚になってしまっていることでした。

 神は生きておられます。生きておられる以上、神を侮るようなことをすれば神はお怒りになります。
 神は生きておられます。生きておられる以上、神は私たちの悩みや悲しみを分かってくださいます。
 神は生きておられます。生きておられる以上、神は荒野のなかで呼び求める人の声を聞いていてくださいます。

 そうした神に対する生き生きとした心が失われてしまっていました。宗教行事が許されていたというのですから、祈りをしたり、礼拝をすることは続けていたのでしょう。しかし、その心には、生ける神に対する畏れ、感謝は、あるような、ないような、という状態でした。そして、心のどこかではこう思ってすらいたのです。もう神の時代は終わったのではないか……    

 感動の失われた抜け殻のようになってしまっていた信仰生活。これこそは、預言者が見ていた最も深刻な荒野でした。このような荒野の心のままでは、神による慰めを受けとめることはできません。それゆえに、預言者は語らざるを得なかったのです。
「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために」

 人々の心の荒野を預言者が見抜いていたということは、神が人々の心の状態を見抜いておられたということでもあります。そのとき神は、人々の心を、また私たちの心を見抜いて、あなたのその心は一体なんだ。そんな心ではもはや信仰者とはいえないだろう……などとは言われないのです。

 心が荒野・荒れ地になってしまう私たちを神は決して切り捨ててしまわれるようなことはなさりません。それどころか、荒野のような心になってしまいやすい、また心を荒野にしてしまった私たちを、それでも「わたしの民」と呼んでくださいます。そして、慰めを与えようとしてくださっています。その神を指し示しながら預言者は叫ぶのです。
「荒れ地で私たちの民のために、主の道を用意せよ」と。

(2023年 待降節の礼拝)

※道路工夫のエピソードは、ワルター・リュティ著「この日言葉をかの日に伝え」井上良雄訳(新教出版社)を参照しています。