ヘブル人の手紙第13章8節
新年(2024年)を迎えましたこの朝、私たちに与えられたみことばを聴きましょう。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(協会共同訳)
ここに「昨日も今日も」と語られています。私たちは大晦日から元旦にかけて、「昨日」という日から「今日」という日への移り変わりをふだんよりもはっきりと意識します。
元旦の朝、いつもとは違った新鮮さを感じるのは、――昨日で2023年は過ぎ、今日から2024年が始まるんだ、というふうに「昨日」と「今日」とをはっきり区別するからでしょう。そして、――今日からはじまる新しい年が良い一年になりますように、という願いを多くの人がもちながら元旦の朝を迎えていることでしょう。
しかしながら、いうまでもないことですが、2024年がどのような年になるかということはわかりません。何が起こるかもわからない。無病息災、災害や事故のない無事ということを願いますが、実際には一年を通して無事ということはほとんどありえないことです。むしろ、今年も何かが起こるということを覚悟しておいたほうが良いのかもしれません。
何が起こっても最善を尽くして生きていくことができるように。どんな事態になっても生き抜いていくことができるように。そういう心を備えさせていただくことが、新年礼拝の恵みだと言えます。そのために今朝の聖書から、三つのことを心にとめてまいります。
1、「昨日」について
この聖句に語られている「昨日」とは、一昨日という意味にとどまらず、過ぎ去った一年全体、さらにはこれまで生きてきた過去と言うことができます。
皆さんにとって、一年をふり返るとき、そこで何を思い出すでしょうか? ――昨年は厳しい年だった……。結果が出せない辛い一年だった……こういう人に対しては、こんなふうに励ますことがあるかもしれません。――過ぎたことはもう忘れて、これからの新しいことを考えていきましょう。こういう励まし方は世間的には正しいかもしれませんが、それだけですと空しいものになってしまいかねません。年が新しくなったからといって、それで昨年の厳しい状態が良くなるというわけでもありません。厳しい現実も一緒に年を越してくるからです。
そこで想い起したいのです。聖書が「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」と語るときの「昨日」には、キリストがおられたということをです。このことは特に、厳しい一年をふり返る時に意味があります。 ――昨年は自分にとって厳しい年だった。結果が出せなかった……と、困難の過去を振り返るとき、キリストは私たちを置き去りにして、別のところにおられたのでしょうか。そんなことはありません。キリストは、困難の中に生きている人の近くにいてくださいます。
そのとき、キリストはどのようなお方としてそばにおられたか。失敗したり、物事がうまく進まなかったりして落ち込んでいる人に向かって、それは努力が足りないからだ、そんなことでは証しが立たないではないか……などと言ったりしたでしょうか? そんなキリストは、昨年中のどこをふり返って見当たりません。
私たちが苦労し、悩み、失望のなかで何度も繰り返し聞いてきたキリストの言葉は、それを要約するならば――わたしは、あなたを見捨てない。わたしはあなたと共にいる、ということだったのではないでしょうか。
そうしたキリストとの関わり、キリスト体験を忘れてしまったら、「昨日」は空しいものになってしまいます。私たちの「昨日」には、キリストが共にいてくださったのです! それによって、落ち込むことはあっても、何とか支えられてきたのではないでしょうか。そうしたキリストと共に生きた「昨日」の体験が、新年を生きていくうえで私たちに知恵と勇気を生む経験となるのです。
2、「今日」について
「今日」とは、新しく迎える一日一日が「今日」となるのですから、今朝から始まる1年間の毎日ともいえます。この一年間においても、「昨日」同様、キリストは共にいて、語りかけ、支えてくださいます。そのことをリアルな事実として受けとめたい。
例えば、ゲーテの詩を愛する人にとって、その詩に共感するとき、ゲーテが心に語りかけてくるような感動を覚えることがあったりするものです。
今はもう生きていない歴史上の人物の残した言葉や思想、生き方が私たちの生活や生き方に小さくない影響、感化を与えることがあります。そういうとき、その歴史上の人物は、精神的な意味においては今も生きている、と言ってもそれを否定する人はいないと思います。そのような歴史上の人物の一人として、キリストは共にいて、語りかけ、支えてくださるということを申しあげたいのではありません。
キリストは「今日」も生きておられ、「今日」という日のために必要なことを語りかけてくださいます。そして、その人に先立って導いてくださいます。
聖書に記されているキリストを思い出して、そのキリストを少しばかり心の支えにするというのではありません。もっと大胆なことを聖書は私たちに示しているのです。キリストは「今日」も生きておられるということを。そのキリストと共に、この一年を生きることができるのです。
3、イエス・キリストは、永遠に変わることがない方
「永遠に変わることのない方」であるということは、少々おかしな言い方になるかもしれませんが永遠に同一人物であるということです。イエス・キリストは、昨日も今日も、そして永遠に同一人物なのです。
そんなことは、あたりまえではないか……という人があるかもしれません。しかし、キリストが昨日も今日も同一人物であるということは、慰めと安心が私たちに与えられるための根拠として極めて重要なことです。にもかかわらず、キリストが昨日も今日も同一人物であるということに慣れてしまいそれを軽く見てしまったり、無意識のうちに否定してしまうことすら起こり得るのです。
人間関係においては、昨日までは親しく接してくれていた人が急にそっけなくなり、つき合いにくい人に変わってしまうなどということがあります。人は身分や立場、状況が変わると、それこそ同一人物とは思えないほどに、態度や対応が変わってしまうことがあります。
そのために同じ相手であっても「昨日」と「今日」とでは、同じように接することができなくなってしまうことすらある。それに対して、イエス・キリストは昨日も今日も、私たちに対して、心や態度を変えてしまわれるようなことはなさらない、同じお方であってくださいます。
クリスマスの聖夜に馬小屋で誕生して飼い葉桶に寝せられていた幼子と、十字架に磔にされたお方とは同じお方です。
それゆえに、クリスマスを感謝することは、同時に、十字架によるキリストの受難によって実現した神さまとの和解・平和を感謝することでもあります。
十字架に磔となって殺される前に、自分を見捨てて逃げた弟子たちに対して、墓から復活された後に「あなたがたに平和(平安)があるように」と語られたキリストと、今、私たちと共にいてくださるキリストとは同じお方です。
それゆえに、神さまに対しても人に対しても顔向けできないような恥ずべき過ち、罪の過去を有しているにもかかわらず、私たちは安んじて、キリストを「私の救い主」と呼び「慈しみ深い友なるイエスよ」と喜び歌うことができます。
十字架で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と、ご自分を磔にした人のためにとりなされたキリストと、やがて審き主として来られるキリストとは同じお方です。
それゆえに、キリストの再臨は、はかり知ることのできない神による救済の日、希望の日として、すべての人々が待ち望むべき日となります。
キリストのご人格は、ご降誕、十字架の受難という「昨日」と、再臨を迎える「今日」とで変わってしまうということは断じてありません。つまり、赦罪の恵みを与えるキリストの愛は、昨日も今日も永遠に変わることはないのです。
この変わることのない希望を根拠に、この一年、何があっても、何が起こっても、神と人とを愛する生き方を精いっぱい生き抜いてまいりましょう。
(2024年元旦 新年礼拝説教)