「未来」と「将来」は類語ですが、使い分けるべき言葉です。国語辞典には、次のような使い分けの説明があります。
未来は「未(いま)だ来たらず」という意味で、「将来」よりも先の不確かで予測しにくいことに使う。
将来は「将(まさ)に来たらんとす」という意味で、予測可能な近い未来に使う。
「未来」という言葉を例えば「未来都市」「子どもたちの未来」というふうに使うとき、そこには明るい期待が込められているように感じられます。一方、「将来」という言葉には、未来よりも現実的な意味合いが強く込められているように思います。ですから、親が子に「あなたも高校生なのだから、少しは○○のことを考えたほうがよいのでは……」と言ったりするとき、○○に入るのは「将来」であり「未来」ではありません。
ある日本の神学者は、キリスト信仰において「未来」という考え方はなじまない。そして、キリストの再臨は「未来」のことではなくて「将来」のことであると言っています。
初代教会の信徒たちは、キリストを将に来りつつある方として待ち望んでいました。今日の私たちにとって、キリストの再臨は不確かな遠い未来のことになってしまっているのでしょうか。そういう感覚に逆らうようにしてでも、キリストの再臨を将来のこととして受けとめていくことが信仰者としての生活、生き方を整えるのではないかと思います。
そして「未来の教会」ではなくて、今、将に現実としてあり、そこに1年、1年と年を重ねて行く「将来の教会」の姿を、聖書を通して見出し、それに向けて必要な実践をしてゆけるかどうか、そのことが問われているように思います。
参考 J・モルトマン著 「神の到来―キリスト教的終末論―」蓮見和男訳(新教出版 1996)