しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(ピリピ人への手紙第3章21~30節)
「私たちの国籍は天にあります」
この言葉を伝道者パウロは、誇り高い喜びと確信をもって手紙に書き記しました。誇り高い喜び、つまり人に誇れる喜びです。ひとくちに「喜び」と言いましても、いろいろな喜びがあります。中には、人にはあまり知られたくない喜び、うしろめたい喜びというものもあるでしょう。それに対して、誰に対しても堂々と「これが私の喜びです」と示すことのできる喜び、それが誇り高い喜びということです。
誇ると言っても、それは自慢をするということではありません。「私たちの国籍は天にあります」と書きながらパウロは、それを自慢したり傲慢になっているのではありません。
この手紙を書いていた時、パウロはイエス・キリストを人々に伝道していたことのために逮捕され、牢獄の中にありました。牢獄での生活、それは苦しく、そして何よりも惨めなものです。
しかし、パウロは苦しさと惨めさのなかにあって、誇り高い喜びに生き続けました。その根拠を「私たちの国籍は天にあります」と言っているのです。
このパウロの言葉は、古くから教会やクリスチャンが墓を建立するときに、墓碑銘として用いることが多い聖句のひとつとなりました。
墓の前に立つとき私たちは心のどこかで「自分もいずれは墓に入るときが来るのだ」ということを意識しているものです。いうまでもないことですが、人の命には限りがあります。そのことを墓参りのたびに思いながら、そのとき、私たちはどんな気持ちになるでしょうか。若い頃には意識しなかったけれども、高齢者と呼ばれる年になって、墓に入る自分の順番も近づいてきていることに淋しさや不安を感じるということもあるかもしれません。若い頃は自分に残されている命のことを意識しないと言いましたけれども、むしろ小さな子どもは墓の意味を知ったときに、人はみな死ぬ時がくるのだということに恐れを抱くこともあるでしょう。
そういうときに、ありきたりの言葉や気やすめの言葉ではなく、「私たちの国籍は天にあります」と、誇りに満ちた喜びをはっきり言いあらわすことができる、それはまことに幸いなことです。
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「私たちの国籍は天にあります」というこの言葉には、クリスチャンの人生観が表されています。そして、それがパウロの言いたかったことでもありました。それを二つに要約して申しあげたいと思います。
1 クリスチャンは、旅人として生きる
「私たちの国籍は天にあります」とそのように信仰を言いあらわすクリスチャンにとって、自分が最終的に帰る場所、しかも喜んで帰る場所は、神がおられる天であると信じます。ですから、今、生活している場所は、いわば旅の途中にある仮の宿のようなものであると考えます。そして、いま住んでいる自宅での生活を大切にしますけれども、それは仮の住まいでの生活であることをわきまえます。同じ意味のことをペテロの手紙第一は、クリスチャンが「寄留者」であるというふうに言いあらわしています。
そういう人生の捉え方が、生きる励ましになるときとして、たとえば入院生活を余儀なくされるような場合のことを考えてみましょう。人生の最後まで住み慣れた自宅で生活したいということは、多くの人が持っている願いだと思います。それだからこそ、介護保険などの社会制度もあるわけですが、しかし、どうしても病院や施設に入らなければならない時が来るかもしれません。そうしたときに「私たちの国籍は天にあります」と自らの心に言い聞かせ、「私が最終的に帰るところは神のおられる天である」という神が成し遂げてくださっている救いの事実を想起することが心の支えとなります。そして病院や施設での生活は、そこもまた天に向けての旅路であり、その途上にある宿となるのです。パウロも、牢獄に入れられた生活を、天に向けての旅路の宿として生きたのです。
2 クリスチャンは待ちながら生きる
天に向けての旅路とはいえ、人生の旅路には試練や困難がつきものです。その試練や困難を乗り越えて行くために、パウロはクリスチャンが信仰をもって受けとめている希望をこう言いあらわしています。
「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」
国籍を持つ者が海外で困難に遭ってしまうとき、その国の政府は支援に努めます。天に国籍を持つ者のためには、天から救い主キリストが来てくださいます。そのときを待つ。この「待つ」ということは信仰生活の特質のひとつです。天に国籍を持つ者は、せっかちにならないで、おおらかに、静かに待つ生活を送ります。そして、そのような生活を送りながら愛のわざに勤しむ者となります。そして、天から救い主が来てくださったときに実現することをこう信じて言いあらわします。
「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」
「卑しいからだ」とは、自分の体を卑下してそう言っているのではありません。私たちの体は、神によって造られ与えられた尊いものですが、病気によって弱さを晒すようになります。老いによって若い頃のからだの強さや美しさがなくなってきます。そうした人のからだの現実を「卑しいからだ」と言いながら、しかしパウロはその卑しいからだがキリストと同じ「栄光に輝くからだ」に変えられると断言して止まないのです。
人は死ぬとどうなるのですか、という質問を受けるときに、安易に天国あるいは地獄に行く、などということを語るわけにはいきません。死後の世界について詳細に語ることばを聖書に見出すことができないからです。しかし、聖書を根拠にはっきりと言えることもあります。それがキリストと同じからだに変えられるということです。
死んで肉体が滅んでも、魂だけは救われて天国で生き続けるというようなことではなく、肉体にまで届く救いがあるのです。ですから、たとえ病で自分の肉体がどんなに卑しいものになったとしても、それを嘆くのではなく、キリストと同じ栄光のからだに変えられるときを信じて待ち望みながら、自分の卑しいからだを最後まで大切にするのです。
(2024年 復活節第二主日、逝去者記念礼拝)