ですからあなたがたは、全ての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、全ての悪意をすてて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
生まれたばかりの赤ん坊は、まことにひ弱なものです。しかし、そんな赤ん坊にも、驚くような力強さを感じることがあります。それは乳を求めるときです。「早く、乳を飲ませてくれ」と言わんばかりに家中に聞こえるかと思うほどの大きな声で泣きます。そして、お母さんの乳房が口に入ると、ぴたりと泣くのを止めて、今度は乳を吸うことに全力を傾けます。そのような赤ん坊の姿には、生きようとする力強さを感じるものです。そんな赤ん坊の姿を示しながら、ペテロの手紙はこう語りかけています。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。
私たちが慕い求めるべき純粋な、霊の乳とは神の言葉のことです。第1章には、こう記されています。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、神のことばは永遠に立つ」とあるからです。(23~25節)
このような神の言葉を慕い求めることの意義を二つの面から受けとめたいと思います。
1 教会共同体の健やかさのために
ペテロの手紙は、教会に生きるクリスチャンに向けて書かれたものです。その中で、ペテロは教会が真に教会であるために「きよい心で互いに熱く愛し合いなさい」(1:22)と勧めています。ところが、それを妨げてしまうものがあります。それが「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口」です。それを放置していては、教会共同体が病んでしまいます。そうならないためにも乳飲み子のように神の言葉という乳を慕い求めることが教会共同体にとって必須の実践となります。それだからこそペテロの手紙は「純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」と語るに先立って「すべての悪意、すべての偽り……すべての悪口を捨て去って」と語るのです。このことから、こう申しあげてよいでしょう。
悪意、偽り……悪口を本当に捨て去って生きるためにはどうしたらよいか。乳飲み子のように神の言葉という乳を慕い求めることが必要です。
乳飲み子のように神の言葉という乳を慕い求めることをしていないとどうなりやすいか。悪意、偽り……悪口に陥ってしまいます。
2 危機に生きる信仰のために
純粋な、霊の乳としての神の言葉を慕い求めることは「それによって成長し、救いを得るため」でもあります。言うまでもないことですが、赤ん坊が成長するために乳が必要です。クリスチャンもその信仰生活の成長のためには、神の言葉が必要であると言われれば、それはよくわかることでしょう。それに比べると「救いを得るため」ということについては、おやっと思うかもしれません。キリストによる福音を受け入れて洗礼を受け、教会員となっている者にとって、救いは既成の事実だと信じているからです。
ペテロの手紙も教会員たちのことを「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており……信仰の結果であるたましいの救いを得ている」(1:8~9)、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは……」(1:18)と言っています。
その救いではまだ足りないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。神さまはキリストの血によって私たちを贖ってくださいました。この救いは、既に私たちに与えられている事実です。そこに足りないものなどありません。
ただし、ひとつ私たちの側の課題があります。それは、私たちが具体的な危機の中に置かれたとき、神さまから与えられている救いに立って生きることができるかどうか、ということです。
人生にはいくつもの危機があります。その代表的なものとして結婚、出産、死別があります。これらの出来事の中におかれたとき人は神仏の助けを求め、それが冠婚葬祭となります。その中で誰もが体験するのは死別です。また死別には、家族の死によるものと自分自身の死によるものとがあります。そうした死について言えば、クリスチャンは既に死を恐れる必要のない救いの中に生かされているという〈神による救いの事実〉と、それでも〈人として死を恐れるという現実〉の間を生きています。
ぽっくり死ねればそれが楽で良いということを聞くことがありますが、死の危機は息を引き取る瞬間だけの問題ではなく、死の時を意識した時から始まります。その時に備えて、死の恐れを克服する救いの事実を告げている神の言葉を生まれたばかりの乳飲み子のように慕い求める生活を普段からしていることが、〈神による救いの事実〉と〈人としての現実〉の間に生きている私たちには必要となります。そうして、死の恐れから解放されることが、ここでいう「救いを得る」ことになります。
突然の重い病いや事故により生命が危険に晒されるようなことになったとき、その人のもっている危機の受けとめ方が露になります。自分の身に降りかかってきた危険を、天罰だと考えてしまうような弱さがクリスチャンであっても皆無とは言えません。そして、そうなってしまうとき、往々にして、その人は神の言葉を聴く生活から遠ざかってしまっているものです。
純粋な霊の乳である神の言葉は、神さまが罪人を赦して和解を与えてくださっているという福音を繰り返し告げています。その福音を受け取りなおすことが危機の受けとめ方の変換をもたらします。その変換によって、神さまは決して罪人をお見捨てにはならない、という救いの事実に立ち返るのです。この立ち返り、すなわち悔い改めそのものが「救いを得る」ことなのです。
生命を奪い、日常生活を奪う大きな地震や台風などのもたらす災害は、この国に住んでいる以上、覚悟しておかなければならない危機です。生命を奪い、日常生活を奪うのは自然災害だけではありません。穏やかさと潤いを失った、余裕のない人間関係とそれを生み出してしまう社会構造の中にある若者たちのなかには、いわゆるアイデンティクライシスと呼ばれる危機の中で、社会と結びついた日常生活を放棄し、更には生きることそのものを放棄してしまう人もいるほどです。
そうした危機が襲ってきたとき、またそうした危機に襲われている人を目の前にしているとき、そこでこそ、神の言葉による希望を受けとめて危機の只中に立ち続ける。そして、神の祝福を分かち合いながら、周りの人たちを慰め励ますという、アブラハムからはじまった祝福の担い手としての務めに生きること。そうした生き方をすることそのものが「救いを得る」ということになります。その救いを得るために生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な霊の乳を慕い求めることは、クリスチャンの日々の生活実践となるのです。
(2024年4月28日 主日礼拝説教)