死を克服する福音「死を突破して、永遠のいのちへ」

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
                                  ローマ人への手紙第6章23節

 今、お聞きしました聖句は、なぜキリストを信じて救いを受けることが必要なのかということをストレートに告げています。また、この聖句は、賜物永遠のいのちといった極めて重要なキーワードを用いており、短い文章ではありますがとても重みのあるみ言葉となっています。そのようなみ言葉から喜びの福音を聴きとってまいりましょう。

1、人生の旅路を死で終わらせないために
 今朝の聖句は「罪の報酬は死です」と語った後、しかし「神の賜物は……永遠のいのちです」と続くのですが、この「しかし」は、罪の報酬としての死と対立する事柄を示すための単なる接続詞ではありません。また、罪の報酬としての死を打ち消すためのものでもありません。ならば、この「しかし」には、どういう意味が込められているのか、ここにこの聖句の恵みに満ちた重みを理解する鍵があります。そこで、この「しかし」を紐解くヒントとして、ひとつの身近な出来事をお話させていただきます。

 茂木町の山奥のある場所に車で出かけたときのことです。通る予定にしていた山の中の一本道にさしかかったとき「全面通行止め」という看板が立てられていてその先に進むことができませんでした。やむなく迂回路を通りましたが、そのため目的地への到着時間が大幅に遅れてしまいました。こういう時、「全面通行止め」という看板を予期せず目の前にするということはいやなものです。
 そんなときに、もし(その日はいませんでしたが)道路の通行整理をする警備員さんがいて「この先は全面通行止めです。しかし、どうぞ気をつけてお通りください」と通してもらえたら、それはありがたいことでしょう。

 私たちはそれぞれ人生の旅路を進むようにして生きています。そうしていると、「全面通行止め」と書かれた看板のように、罪の報酬は死ですという現実が目の前に立ちはだかる時がきます。もうその先には進めない行き止まりです。実際の道路と違って迂回路はありません。こうして死は人生の行きつくところ、終着駅になる。だから、罪の報酬としての死を受け入れるしかありません。それが聖書がさまざまな言葉で示している人間の実情です。そして、それは打ち消すことのできないものです。罪の報酬としての死という状況を前に、どうすることもできません。手の施しようがありません。そのような現実があるのにもかかわらず、聖書は私たちに告げるのです。
 ――しかし、あなたはここで立ち止まらないで先に進みなさい。ここを突破するのです。そして永遠のいのちにあずかりなさい!

 このように、この聖句の「しかし」は、罪の報酬としての死を突き抜けたところにある、永遠のいのちという偉大な希望を指し示しています。そして罪の報酬である死という通行止めがあるにもかかわらず、私たちにこう呼びかけているのです。
 ――しかし、前進せよ!

2、キリストは死なれた。しかし、復活された。
 さて、それならば、罪の報酬としての死を突き抜けることを可能にしているものは何なのでしょうか。死を突き抜けたところにある永遠のいのちにあずかることを可能にしているものは何なのでしょうか。そのことを端的に示しているのが使徒信条のなかにあるキリストについての信仰告白です。そこにはこう言いあらわされています。

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり
三日目に死人のうちよりよみがえり

 キリストがポンテオ・ピラトによる裁判を受けたとき、キリストを裁いたピラトは「この男には何の罪もみつからない」とそうはっきりと言いました。何一つ罪のないキリストが、最も重い犯罪者を処刑するための十字架刑に処せられたのです。その時に何が起こったのか。
 キリストは、私たちが受けなければならない罪の報酬としての死を身代わりとなって受け、苦しまれました。その苦しみがどれほどのものであったか。それは十字架に磔となられたキリストの叫びがすべてを語っていると言えましょう。キリストはこう叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マルコ15:34)

 神の御子であるキリストが、神に見捨てられる苦しみを受けた。これこそは、キリストが十字架によってお受けになった苦しみの最たるものでした。
 そして、見落としてならないことは、キリストをここまで苦しめた死こそは、罪の報酬としての死の実体だということです。単に命を落とすという死ではない。寿命が尽きて死ぬということではないのです。そういう死は、罪とは関係なく誰もがいつかは迎えるものです。ところが罪の報酬としての死は、生命の終わりとしての死を恐ろしく危険なものに変えてしまいます。神から見捨てられるという絶望が極限に達した、一切の光のない闇に落ち込んでゆくような、呪われた、おぞましい死にしてしまうのです。

 このことで勘違いしてはならないことがあります。神さまは決して人を見捨てることはなさらないということです。もちろん、御子キリストを見捨てることも実際にはありませんでした。神さまがなさることは、見捨てることではなく、慈しみ、憐れみ、愛することです。この神さまの愛は変わることがありません。ではなぜ、キリストは「わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのか。罪の報酬としての死は、神から見捨てられるという実際にはありえない虚無、闇でその人を覆い、絶望の淵に追いやるからです。だから、危険なものであり恐ろしいものなのです。
 まさに、そのような絶望の極みともいえる、私たちが本来受けるべき苦しみを受けてキリストは死なれ、葬られ、よみにくだられました。それで終わりでしたら「罪の報酬は死です」ということを証明するだけの死になってしまいます。

 しかし、キリストは三日目に死人のなかからよみがえられました。このキリストの復活こそは、今朝の聖句が「しかし」と語り、死を突破させる根拠そのものなのです。
 私たちの人生の旅路に立ちはだかる「この先全面通行止め」という看板ともいえる罪の報酬としての死は、今なお変わることのない、罪人である私たちの前に立ちはだかる現実ですが、今や、それを突き抜け、永遠のいのちに生きるための道が、例外なくすべての人のために開かれているのです。

 このキリストが開いてくださった道を進む先にある永遠のいのちは、罪の報酬としての死がもたらす絶望という闇を打ち消してしまう圧倒的な光となります。このいのちについてはこう言ってもよいでしょう。

 永遠のいのちとは、神さまはどんなことがあっても私をお見捨てにならず、常に共にいてくださる、そのことによる〈平安のなかに生きるいのち〉です。

 人は神さまによって造られた被造物ですから、神さまとは違って、もともと永遠に生きるものではありません。それゆえにいつかは生命の終わりとしての死を迎えますが、その〈死によっても失われることのないいのち〉それが永遠のいのちです。

 つまり〈永遠ではない人間が、永遠なる神さまにつながることにより与えられるいのち〉それが永遠のいのちなのです。

 そのいのちを神さまは、報酬としてではなく賜物として与えてくださいます。報酬とは賃金、給料のことですが、普通それを与える場合、そこには計算、給与計算がつきものです。
 永遠のいのちが賜物として与えられるということは、神さまは私たちについて計算をなさらないということです。私たちが生涯のなかで行った良いこと悪いことを計算してその結果にもとずいてというのではなくて、プレゼントとして永遠のいのちを与えてくださる。だから神さまによる自由な恵みの賜物なのです。
 私たちの側に、永遠のいのちをうけるに値する働きがあったから、資格があったからということは一切ありません。

 こうして、永遠のいのちにあずかる道がキリストによって開かれている以上、私たちに残されていることは一つです。それは、神さまがキリスト・イエスによる永遠のいのち賜物として与えてくださるということを、安心して信頼し、肝に銘じ、受け入れること、すなわち信じることです。それをしないということは、死を危険な、恐ろしいままに放置しておくことになります。罪の報酬としての死永遠の命とは相反するものであり中間というものはないからです。

 この永遠のいのちにあずかる道のことをキリストは「狭き門」と言いました。狭き門とは、難しいために、特別に優れた者、努力したものだけが通ることができるという意味ではありません。誰でも通ることはできるのです。そしてそれは決して難しいことではない。しかし、その門を見出す人が少ない。その門を安心して信頼し、通ろうとする人が実に少ないのです。だから狭き門になってしまう。
 今朝の聖句を聞いた皆さんは、どうぞ、永遠のいのちに生きる狭き門を見出す人になっていただきたいと思います。狭き門を進み、死を突破し、永遠のいのちに生きるお互いでありたいと思います。

(2024年9月8日 主日礼拝説教)