ヨハネの福音書第3章1~15節「新しく生まれた者は神の国を見る」

1、神の国をめぐるニコデモの苦悩
 ニコデモがキリストを訪ねたのは「夜」でした。その理由について聖書は何も触れていません。そこで、この夜の訪問については大きく二つの理由が考えられてきました。ひとつは、人目につかないようにという消極的な理由。もうひとつは、真理をめぐる深い対話をするには昼間の喧騒が去った夜がふさわしいという積極的な理由です。いずれの理由も大いにありそうな話しではありますが、理由としてはもう一つ弱いものを感じてしまいます。

 聖書が夜の訪問の理由を明らかにしていない以上、私たちなりに理由を想像することは許されることでしょうし、そのことを福音書の著者も期待しているのだと思われます。つまり、ニコデモとキリストの対話を記している聖書は、単なる過去の出来事についての記録ではなく、今を生きる私たちが神の言葉を聞きとるための備えをさせるものなのです。そのために、ニコデモという人は、私たちを映し出し、私たちの代表者として登場しています。であるならば、夜の訪問について次のような第三の理由を考えることもできるでしょう。

 ニコデモは、眠れない夜が続いていました。高齢者に多くみられる辛さのひとつに夜、眠りにつけないことがあります。ニコデモは、キリストとの対話のなかで「人は、老いていながら、どうやって生まれることが……」(4節)と言っていることから高齢であったと考えられてきました。
 高齢のニコデモにとって、夜は安らぎの時ではなくなっていました。眠りにつくことのできない夜、悩みと疑念がニコデモの心を占領していきました。その心に駆り立てられるようにして、ニコデモはキリストを訪ねずにはおれなくなったのではないか。ニコデモの夜の訪問には、切羽詰まった切実なものがあったように思えてなりません。
 それほどまでにニコデモの心を占めていた悩みとは何であったのか。それは、このあと、キリストが語られたことのなかにある神の国を見ることをめぐっての悩みでありました。神の国を見るとは、言い換えれば神のご支配を見るということです。
※ギリシャ語のバシレイアは「支配」を意味し、同時に支配が及ぶ「場所・空間」をも表現する。「神の国」は、支配領域に着目した翻訳であるが、支配そのものに着目するならば「神の支配」となる。

 ニコデモが生きていた時代、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にありました。神に選ばれた民であることを誇りとしていたユダヤ人にとって、ローマ皇帝を神とし、いろいろの神々を祀っていた人々の支配を受けることは屈辱的なことでした。ニコデモはユダヤ人の指導者としての立場にあった議員でありましたし、神の民としての生き方を大切にしていたパリサイ人でしたから、その屈辱は人一倍大きかったことでしょう。そのようなニコデモが真剣に問い続けていたことは、なぜ神は、偶像崇拝者の国とその人々の繫栄をゆるし、神の民であるユダヤ人の貧しく屈辱的な生活をそのままにしておかれるのか、ということでした。そうした現実を見るにつけニコデモは、神のご支配が分からなくなってしまっていたのでした。この悩めるニコデモの姿は他人ごとではありません。神さまが世界を支配しておられるのならば、こんな理不尽なことがなぜ起こるのか……ということが、いつの時代にも教会とクリスチャンを悩ませてきたからです。

 東日本大震災によって、実にたくさんの人が亡くなりました。そうした人たちの「救い」を私たちはどう考えるのでしょうか。大地震の犠牲となった人のほとんどは、神を信じ、キリストを信じていた人というのではありません。もし、そうした人たちの親族や友人から、地震と津波で亡くなった人たちの「救い」について質問を受けた時、私たちは曖昧な答えをしていてよいのでしょうか。こうしたことも、神の国・神のご支配を見る問題と結びついています。ですから神の国・神のご支配が見えない、分からないというニコデモの悩みは、過去の話しではありません。
 この悩みに、私たちは真剣に向き合っているでしょうか。ニコデモは、この悩みに向き合っていたからこそ辛い夜を過ごしました。そして、ついにはキリストを訪ねずにはおれなくなりました。私たちはどうでしょう。私たちはニコデモのようにキリストのもとに進み出て、ニコデモと共にキリストの言葉に耳を傾けるべきでありましょう。

2、新しく生まれる
 ニコデモの悩みを、また私たちの悩みを知っておられるキリストは、単刀直入、こうお語りになりました。

まことに、まことに、あなたに言います。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

 キリストは、ニコデモのような神のご支配について深く思い悩み、疑念を抱いている者に対しては、神の国について譬えを用いて語ることも縷々説明することも一切なさいませんでした。
 ――神のご支配については、人には分からないことが多々ある。そうしたことは神にゆだねて、神の最善を信じるべきである……といったような、紋切り型と言われてしまうような正論を語ることもなさいませんでした。
 キリストは、神の国・神のご支配を見るには何が必要であるかを示されました。ニコデモを慰め、励ますためには、神のご支配についての説明ではなく、それを見ることが必要でした。だからこそ、ニコデモを思いやってお語りになったのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」

 これを聞いたニコデモの反応は「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」というものでした。このことから、ニコデモが新しく生まれるということの意味を全く理解できていなかったことがわかります。しかし、そのことは私たちにとっても同じことです。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とは確かに、いかにも難解で、そう言われた方は面食らってしまいます。ただしかし、新しく生まれることであることが可能になる、という考え方を私たちは全く知らないというわけでもなさそうです。次のようなことを指摘した人の言葉を思い出します。

 誰でも、死を身近に覚え、また死の危険から脱した者は、「ふたたび生かしていただいた」ことを知ります。そして「新たに生まれた」という感覚をいだくようになり、この世の生の一回限りの美しさをよみがえったような鋭い感覚でもって体験するようになります。その時、突如として、生きるとは真に何を意味するのかをきわめてはっきりと意識するのです。 (J・モルトマン著「神の到来―キリスト教的終末論」より)

 死線をさまよう病や事故から奇跡的に助け出された人が、自分の命について「生きながらえた」というよりも、命を「与えられた」と意識するようになったという話しを聞くことがあります。また、そうした人たちが異口同音に言うのは、今まで見てきた世界が変わって見えるということです。たとえば、これまで当たり前のように見ていた景色の美しさに気づくようになる。そうして、世界を見る目にある種の鋭さが与えられるのです。そのことと、新しく生まれることで神の国・神のご支配を見るようになる、ということには類似性があるように思われます。

 神の国を見るということは「ものは考えよう」的に、物事を良いように考えるというのではなく、実際に見ることです。ただし、視覚において他の人には見えていないものが、霊能者のように見えるようになるということではなく、同じ出来事を見ていながら、そこに神のご支配があることを併せ見る鋭さが与えられることと言えましょう。
 大地震の出来事を振り返るとき、今も続いている戦争の出来事を見るとき、そのようなことが起こる世界とは別の世界として神の国を見るというのではありません。人の命を奪い、脅かすありとあらゆる災害や戦争が絶えることなく繰り返される悲惨なの現実を見ると同時に、このを愛し、を救ってくださる神のご支配を見ることができるようにされるために、人は新しく生まれなければなりません。そのためにキリストはこうお語りにもなりました。

まことに、まことに、あなたに言います。
人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

3、新しく生まれるとは、希望の担い手として召されること
 新しく生まれるとは、水と聖霊とによって生まれることだとキリストは言われました。そこに「水」と語られていることから、それは暗に洗礼を指しているのではないかと理解されてきました。実際、洗礼を受けるということは、新しく生まれることだからです。
 ここで注意すべきことは、水を用いた洗礼という儀式そのものが人を新しく生まれさせるわけではないということです。大切なのは、洗礼において働かれる「御霊」すなわち聖霊の力です。
 古くから伝わる教会の祈りに「造り主なる聖霊よ」という呼びかけがあります。『来たりたまえ、創造主なる聖霊よ』とうたう9世紀につくられたグレゴリオ聖歌や、宗教改革時代のコラールもあります。教会は、聖霊が人を新しく造り変え、新しく生まれ変わらせることを信じてきたのです。
 人を新しく生まれさせる聖霊の働きのことをキリストは「風は思いのままに吹きます」とはギリシャ語では同じ言葉)という言い方をしています。人は、風を思い通りに操ることはできません。その意味ではまさに思いのままに吹くのです。同じように、私たちは聖霊を思い通りにすることは――たとえ祈りによっても――できません。聖霊は神として、神の思いのまま、御心のままに働かれるからです。ですから、聖霊によって新しく生まれるということは、神の御心によって選ばれ召されるということでもあります。どこまでも神のお働きによるものであり、人間の側の可能性や努力によるものではありません。

 そのような聖霊によって新しく生まれた者に対しては使命が託されます。その使命とはまさに神の国・神のご支配に関わることです。神の国・神のご支配を見る人は、何よりも神の愛と、救いのためになされる神のお働きを知る者とされます。そうして神の国・神のご支配による希望を、殊に世界の将来についての希望を見る者とされます。その希望を悲しんでいる人と分かち合うことが託されるのです。
 世界の将来について、破滅や滅亡的なカタストロフを吹聴したり厭世観に耽ることは、神の国・神のご支配を見ることとは関係ありません。
 新しく生まれた者は、悲惨な世界に目を背けることなく、その現実を見つめながらも、この世界を神が救ってくださるという希望を信じます。その希望をもって、悲しみの淵に立つ人を慰め励まし、共に生きる者となれるよう祈り求めるのです。