イースター・復活主日礼拝説教
日曜日の朝、マグダラのマリアともう一人のマリアとが、キリストの葬られた「墓を見に行った」と聖書は記しています。このことについて、マルコの福音書はもう少し詳しく、マリアたちが墓に行った目的を「イエスに油を塗りに行こうと思い」(第16章1節)と記しています。キリストを敬愛していたマリアたちは、キリストの遺体に香りの良い香料となる油を塗るために墓に向かったのでした。こうしたマリアたちの様子からは、復活祭の兆しはまったく感じられません。
そんなマリアたちとは対照的であった人たちがいます。祭司長とパリサイ人たちです。いずれもキリストに対して激しい敵意を抱いていた人たちです。これらの人たちはキリストの死後、ローマ総督ピラトのもとに行き「閣下、人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました」と言って、キリストの遺体を弟子たちが墓から持ち出して、よみがえりを吹聴するようなことがないようにと、墓の警備を要請します。この要請をピラトは不愉快に思いながらも番兵を配置させることにします。この番兵のなかには、キリストを磔にする前に、頭に茨の冠を載せて棒を持たせ、マントを着せて悪ふざけをした兵士もいたかもしれません。ですから、そのキリストの墓を警備する特別任務を命じられたとき、なぜ十字架刑になった男の墓など見はる必要があるのかといぶかる者もいたことでしょう。
こうしてキリストの復活をめぐって、祭司長たちは厄介ごとが起こらないようにと陳情し、ピラトは不機嫌に警備を許し、兵士たちは嬉しくもない夜間勤務を伴う特別任務を命じられることになったのです。これらの人たちは、キリストの復活を信じていたわけではありませんが、キリストが「わたしは三日後によみがえる」と語られた言葉のゆえに、彼らなりの日曜日の備えを怠りなく行っています。その様子は、かえって復活祭の兆しをあらわすものとなっています。
それに対してマリアたちは、そしてまだ姿を見せてない弟子たちには、キリストの復活を意識した様子は全く見られませんし、復活の希望による行動は皆無でした。キリストが復活について語られた言葉に対する記憶すらもなくなってしまっているかのようです。
このような、キリストに敵対するグループと、キリストを敬愛するグループに見られる奇妙な対比のなかで復活祭の出来事は起こりました。その出来事についてマタイの福音書は、またもや(キリストの死後に起こった出来事を記したときのように)、「すると、見よ」と注意を促しながら、日曜日の朝に墓で起こった事をこう記しています。
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。(2~4節)
ここに、兵士たちから天使へという番兵交代とも言うべきことが起こったことを見ます。マリアたちが墓に到着したとき本来なら、ピラトの兵士たちは――墓に近づいてはならない。直ちにここから去るように、と厳命をくだすところでしたが、死人のようになっていて、もはや番兵の任務を放棄していました。その代わりに、天から遣わされてきた番兵である天使たちはマリアたちにこう告げたのでした。
あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを探しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです…… 急いで行って弟子たちに伝えなさい。「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」と。(6~7節)
この時、天使たちが復活祭のメッセージともいうべき、キリストのよみがえりを告げ知らせた相手は、キリストの復活をめぐる特別任務に就いていた兵士たち、震え上がって小さくなっていた哀れな兵士たちに対してではなく、キリストの復活のことが全く心中になかった女性たちでありました。こうしてマリアたちは復活祭の喜びを得、復活されたキリストについての証人となったのです。
それに対して、この後、墓から帰投した兵士たちから報告を受けた祭司長たちは――やれやれ、あのイエスという男は死んでからも面倒をかけるのか……と大きなため息をついたことでしょう。実に復活祭の出来事は、喜びを与えるだけでなく、深い大きなため息をつかせるものともなったのです。
一方は喜びを得、一方はため息をつく。この違い、この差は何によるものなのでしょうか。信仰によるものでしょうか。やはりそうだというべきでしょう。
祭司長たちは、神経を尖らせるほどに、キリストの復活のことを心に留めてはいましたが、そこには――もし本当に復活したら、そのときは……とキリストに対して心を改める、すなわち悔い改めて信じる用意はそもそもありませんでした。それに対して、天使たちからの知らせを聞いたマリアたちについて聖書はこう記しています。
彼女たちは恐ろしくあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。(8~9節)
キリストの足を抱かせ、キリストを拝させたものは信仰です。不信仰は、たとえ実際にキリストを目の前にしても、ひざまづかせることも、拝させることもしません。復活祭の平安を得るために必要なものは多くはありません。キリストはおよみがえりになったという知らせを信じること。この一つだけです。
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マリアたちは、墓で天使から「恐れることはありません」と呼びかけられるのを聞いていましたが、キリストとお出会いしたときにも「恐れることはありません」と同じ言葉をキリストから語りかけられています。そして、今朝の復活祭礼拝に集まっている私たち、皆さんに対しても同じ言葉が語りかけられます。「恐れることはありません」
この呼びかけは、キリストの復活を信じて受けとめ、復活のキリストを告白し、証しする者たちに対して語られる、復活祭のメッセージの重要な一部といえるものです。その重要性はおもに二つあります。
一つは、キリストの復活を伝える復活祭のメッセージは、私たちが生きているこの世においては、受けとめられることなく聞き流されてしまいやすいことと関係があります。
「イースター」にまつわるイースター・エッグやイースター・バニーの意味についてたずねられたときに、それらがキリストの復活祭と関係があることを話してあげるならば、聞き手はイースター・エッグ、イースター・バニーの説明としてそれを喜んで聞き、面白がりながら納得もしてくれることでしょう。しかし、復活祭そのものの出来事としてキリストが墓からよみがえられたことを語るならば、それを聞いた人の表情はともかくも、内心では大きなため息をつかれることは大いにあり得ることです。マリアたちがキリストの復活を伝えに行った弟子たちの中にも、復活を信じることができない(後には信じましたが)トマスのような人がいたのですから。
復活祭のメッセージは、この世においては異議申し立ての対象となる事柄なのです。そのことを恐れることなく、必要とされている時には、キリストの復活とそれを土台とした希望を語る。そのことをキリストは私たちに期待しておられるのです。
「恐れることはありません」という語りかけを聞いたマリアたちのおかれていた状況は、平穏な明るい気分に満ちていたわけではないことを忘れるわけにはいきません。マリアたちの心は、キリストが死なれたことによる失望と試練の重みに押しつぶされそうになっていたことでしょう。
「恐れることはありません」という言葉が復活祭のメッセージの一部として語られるとき、それは失望や恐れといった試練の只中にある人に向かって語られるものとなります。そのことの意味を具体的に受けとめるために、生命の終わりの時が近づいてきたとき、死を迎えるときのことを考えてみましょう。
死の時が近づいてくると、病院のスタッフの方たちや家族がベッドに横たわっている者の近くに来て、いろいろと励ましの言葉をかけてくれることでしょう。そうした励ましを素直に受けることは大切にしたいことですが、それ以上に大切なこととして覚えておきたいことは、その時こそクリスチャンにとって、復活のキリストを証しする一世一代の任務を果たす時となるということです。
ベッドにあおむけになっている自分の顔を心配そうに、あるいは悲しそうにのぞき込む家族や親族がいたときに、そうした人たちを安心させてあげることが病床における私たちの務めとなります。
病苦によってどれほど肉体が衰えはて、醜さをさらすようなことになっていたとしても、人としての気高さを失わずに、つまり自分のことではなく他者のことに心を配れる気高さを保つことが「神は私たちとともにおられる」というインマヌエルの平安によって生かされていることの真実を証しすることになります。そして、そのような証しに生きることが結局のところ、自分自身の救いと平安ともなるのです。そのためにも、そうした場面で、死を前にした私たちが絶望や恐れに囚われてしまわないように、復活されたキリストが語りかけてくださいます。「恐れることはありません!」
こうして復活祭の平安は、私たちのいのちに関わる戦いの要衝、さいごの砦となるのです。
祭司長とパリサイ人たちは、キリストの復活を心に留めてはいましたが、それは信じるに値しないという考えを変えようとはしませんでした。それに対して、キリストの復活のことを忘れ去っていたマリアたちと後の弟子たちは復活を信じる者となりました。
この二つのグループ、信じない人々と信じた人々とを対比するように記している聖書の記述からは、復活祭の受けとめ方についての重要なヒントを読みとることができます。
復活を信じるということは、奇跡的な出来事としてだけ信じるのではなく、またそのような信じ方では復活祭の平安を受ける信仰にはなりません。聖書が語る復活とは、あくまでも十字架に磔となって死んだキリストの復活です。ですから、復活を信じるということは、キリストを信じることと共にあり、そのキリストが与えてくださる恵みを信じることと共にあります。キリストと切り離して、またキリストによる恵みと切り離して、復活だけを信じようとしても、それでは平安を受けとめる信仰には至りません。
キリストの復活は、大きくは世界の救い、すなわちこの世全体の救いのためのものであり、それによってもたらされる、私たちひとりひとりの救いのためのものです。そのことを受けとめることと復活を信じることとは一つです。
復活祭に「おめでとう」と挨拶を交わすのは、キリストの復活そのものに対してのおめでとうという意味ではありません(その意味を否定する必要もありませんが)。
復活されたキリストによってもたらされる平安があなたにも与えられていますね。それはおめでたいことですねと、キリストの復活によってお互いに与えられている救いを喜びながら、おめでとうと挨拶を交わすのです。そのような祝福の挨拶を今ここで、皆さんに申しあげたいと思います。
復活祭、おめでとうございます!
(2025年4月20日 復活主日礼拝)