さて、イエスは通りすがりに、生れたときから目の見えない人をごらんになった。(1節)
このような言葉をもって第9章は始められています。この1節は、単に物語を語りだすための導入句ではありません。このとき、目の見えない人に対してはキリストの弟子たちも目をとめていました。もしかすると、弟子たちのほうがキリストよりも先に、道端で物乞いをしていた盲人に気づいていたかもしれません。そしてこの目の見えない人についてキリストに質問をするのですが、そうした弟子たちのことからではなく、福音書の著者は先ず「イエスは通りすがりに、生れたときから目の見えない人をごらんになった」と、そうはっきりと書き記します。そうして、目の見えない人をごらんになったキリストの眼差しについて想起することを私たちに促しているのです。
目の見えない、そのために道端で物乞いをするしか生きるすべがなかった人をごらんになったキリストの眼差し、それは好奇心でじろじろと見るような目ではありません。可哀そうにと思いながらも何もしようとしない力のない目でもありません。ましてやその人を疑り深く、意地悪そうに見たりする目でもありません。キリストの眼差し、それは憐れみと力に満ちた目です。そのような眼差しでキリストは、生れたときから目の見えない人をごらんになったのです。すると一緒にいた弟子たちがキリストに、こう質問しました。
「先生、この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか。」
生まれたときから目が見えないという不幸は何によるものなのか。その問いを弟子たちはキリストにむけました。この弟子たちの問いと似た問いを今日においても多くの人がいだきます。
大きな事故にまきこまれたり、重い病気で不自由な体になってしまったりしたとき、その当事者や家族は苦渋に満ちた問いに苛まれます。――どうしてこんな不幸なめにあわなければならないのか……
ただし、弟子たちと私たちとで少し違うのは、弟子たちはイスラエルの信仰に生きているので、不幸の原因について問うときに「だれが罪を犯したからですか。この人ですか、両親ですか」というような言葉が出てきます。これが日本人でしたら――悪い行いをしてきたから、ばちが当たったのですか……という問いになるかもしれません。あるいは――先祖の供養を熱心にしてこなかったからとか、住んでいる家の建っている方角が悪い、名前の字画が悪いから、などというようなことを言いだすかもしれません。
このような――はっきり言ってしまいますが――迷信による因果応報による考えと、弟子たちの「誰が罪を犯したためですか」という問いとを同列に並べてしてしまうことは適切ではありません。というのは「だれが罪を犯したためですか」という問いは、迷信からではなく聖書の言葉を根拠にしているからです。たとえば、出エジプト記にはこういう言葉が記さています。
「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。」(出エジプト記第20章5~6節)
十戒が神の民に授けられることになった時、神を愛して神の命令を守る者と、神を憎んでその命令を守らない者とについての対応が示されました。その中で、神の命令を守らないで罪を犯す者に対する報いが子孫にまで及ぶことが述べられています。ですから「だれが罪を犯したからですか」という弟子たちの問いは、信仰的な意味をもつ質問であったといえるのです。そのような背景を持つ弟子たちの問いにキリストは答えて言われました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
このキリストの答えから、はっきりと聴きとるべきことは、目の見えない人の不幸は、本人の罪によるものではないし、両親の罪によるものでもないということです。これは、旧約聖書の言葉をひるがえしてしまうような極めて大胆な発言です。この発言をもってキリストは、不幸の原因探しの一切に終止符を打たれたのです。そして、これはキリストだけが語り得る言葉でした。
この言葉をお語りになったキリストは、そのために、全ての人間の罪に対するさばきと呪いを一身に負う十字架の苦しみをお受けになりました。実にキリストの十字架による受難は、十戒を与えた神さまの御心でありました。そのことによって、子孫にまで及ぶと警告されていた罪とその報いは廃棄され、抹消され、除去されたのです。それゆえに「誰が罪を犯したからですか」という問いは、もはや意味をもたない空しい問いでしかありません。
目の見えない人のことで弟子たちとの問答を交わしていたとき、キリストはまだ十字架にかかられる前でしたが、このとき既に、世の罪を取り除くために十字架による苦しみを負うことがご自分に定められた神の御心であることを覚えながら、決然とお語りなったのです。
「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(協会共同訳)
こうして生まれつき盲人である人を、罪による報いを受けた人ではないと宣言されたキリストは、さらに、この不幸を負って生きている人の受けとめ方を示してこう言われました。
「この人に神のわざが現れるためです。」
この言葉をもちろん弟子たちは聞いていましたが、その場にいた当の目の見えない人も聞いていたことでしょう。
人間の体というのは、ある部位や器官の働きが弱ったり失われると、それを助けようとして別の部位や器官の働きが強まることがあります。視力が弱い人の場合、それをカバーするために聴力が優れているということがあります。この目の見えない人も耳は人一倍よく聞こえていたかもしれません。そしてこれまでに、自分の前を通り過ぎて行く人々が――この男は、神さまからの祝福を受ける資格のない過去を持っているのだろう……といった類のささやきやうわさをいやというほど聞き続けてきたのではないかと思います。そこにある日、弟子たちの「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という声が聞こえてきたとき――やれやれ、また私を肴にして言いたいことを……と思ったことでしょう。ところがそのあと、いままで聴いたことのない驚くべき言葉が耳にはいってきたのです。
「この人に神のわざが現れるためです。」
このキリストの言葉を注意深く聞きとりましょう。目の見えないその人が立派なわざを行うようになるため、というのではありません。目の見えない人に神さまが行うわざが現れるためだとキリストは言われる。ではこの神のわざとは何でしょうか。
この後、目の見えない人は、目が開かれ見えるようになります。それが神のわざでしょうか。生まれつき目の見えない人の目が見えるようになったということは確かにキリストがなさった癒し、神の恵みによる癒しと言えるものです。この奇跡的な癒しそのものだけを神のわざと理解するならば、それはかえって神のわざを見誤ることになりかねません。
考えてみてください。私たちの周辺にも生まれつき身体に不自由やハンディを負っている人がいます。そうした人たちにも神のわざが現わされるためにと教会に招いて、キリストのように癒しを行ってきたという事実が教会の歴史にあったでしょうか。
目の見えない人が見えないままで教会に集い、希望を回復したという人はいます。不幸な境遇のなかで、癒しが与えられることがなくても、厳しい状況が続いていても、喜びと感謝を取り戻す人が教会から生まれてきました。そこに見えてくるのが神のわざです。
神のわざは、重くのしかかる不幸によって生きる喜びを失ってしまった人のいのちを活き活きとしたものにつくりかえ、新しい人として生きることができるようにしてくださいます。そのために神のわざは、キリストに十字架の苦しみを負わせることで世を救い、ひとりひとりを救う神の愛に目を開かせます。
道端で物乞いをしていた目の見えない人は「この人に神のわざが現れるためです」というキリストの言葉を聞いて――私のような人間に神さまのわざが現れる?!と驚きながらも喜んだのではないかと思います。だからこそこの後、キリストのなさった唾でこねた泥を目に塗るという不可解な行為を受け入れ、命じられるとおりにシロアムの池にまで行ったのです。
この人はキリストによって癒され目が見えるようになりましたが、もし見えるようにならなかったとしても、神の愛に対する信仰の目は開かれたに違いありません。そして、自分の人生を呪うことなく、感謝の心をもって生きる者とされていったことでしょう。こう申しあげることのできる根拠は、キリストの口から出た「この人に神のわざが現れるためです」という言葉は、空しく終わることのない神の言葉だからです。
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山登りをしていると、平地では見かけない花を見ることがあります。厳しい自然のなかでひっそりと健気に咲いている花を見ると心を動かされることがあります。そういう珍しい花でなくても、道端に咲いている、誰かがせっせと世話をして咲かせているわけでもない雑草の花を見て感心することもあります。そのような野の花について、キリストはこうお語りになったことがありました。
野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。(マタイの福音書第6章28~30節)
神さまが装ってくださる一輪の花を見て感心し、感動を覚えるのであるならば、神のわざが現われるために生かされている一人の人間が困難や不自由を負いながらも生きている姿は、野の花に勝って感動をもたらすはずのものです。
しかし、そうなっていないことを正直に認めなければなりません。不自由や不幸を負っている人を見たときに――気の毒に……と、力のない眼差しをむけるだけになってしまいやすい。不自由や不幸を負っている本人も――こんな人生なら、生きていてもしかたがない……と自分のいのちを呪うことすらしてしまう。そうなってしまうのは、私たちの目が、見るべきものを見ていないから。目が見えないからです。
キリストは、通りすがりに、生れたときから目の見えない人をごらんになったとき、憐れみと力に満ちた眼差しを注がれました。その眼差しは同時に、この不幸に生きている人のいのちを新しくし、希望を与えるためにみわざをなさる天の父、この世を愛される神に向けられてもいました。
私たちが求めるべきものは、このキリストの眼差しの千分の一でもよいから、私たちの眼差しがつくり変えられることです。世間が不幸だとか困難と呼ぶ境遇のなかで生きる、貧しく、弱く、小さい者を、そして罪ある者を憐れんでくださる神の愛が見えるように、信仰の目が開かれることです。ここに至って私たちは知るのです。この生まれたときから目の見えない人の物語は、実は私たち自身の物語であったということを。
(2025年8月3日 主日礼拝説教)