ヨハネの福音書第9章1~12節 Ⅱ「因果ではなく神による将来を」

 キリストは、生まれつき目の見えない、それゆえに物乞いをするしかなかった人を前にしてお語りになりました。

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。」

 弟子たちは不幸な境遇に生きていた人について「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか」と質問をしましたが、キリストは目の見えない人の過去に触れることは一切なさらず、弟子たちが抱いていた不幸の原因は罪によるものという考え方をはっきりと否定なさいました。
 さらにキリストは目の見えない人について「この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを行わなければなりません」と語られたのでした。こうしたキリストの言葉から、私たちは問いかけを受けているといえます。
 ――あなたがたのすべきこと、それは不幸の原因について評論家のように饒舌になることですか。そうではなくて、天の父のわざ、神のわざのために生きることなのではありませんか。

 そう問われれば、なるほど、そのとおりだと私たちは納得するでしょう。しかし、それにも関わらず、不幸が起こると――なぜ、こんなことに……、それは〇〇だから……と過去に触れながら原因探しを始めてしまう。そして弟子たちと同じように、不幸の原因について宗教的因果応報とでもいうべき、罪を犯したから……という考えに傾きやすいのです。そういう発想から抜けだせない弱さがクリスチャンにはあるということを私たちは自覚する必要があります。

 コロナウィルスの世界的な感染拡大がまだ収束していない2021年に出版された『危機の神学―無関心というパンデミックを超えて―』(若松英輔、山本芳久共著 文藝春秋)という本があります。その第二章『疫病とキリスト教』で、3人のプロテスタントの学者が、コロナ危機をどのように受けとめているかということを、それぞれの学者の書いた書物を引用しながら論じているところがあります。その箇所は、私たちの陥りやすい弱さとそれへの対応を知るうえで参考になると思いますので、孫引きになりますが紹介しましょう。

 神はコロナウィルスの大流行によって、ほかのどのような大災厄の場合も同じく、神を軽んじる罪が、どれほど道徳的に恐怖すべき、霊的に醜悪なものであるかを、目に見える物理的な形で世界に示しておられる。

 一部の人がコロナウィルスに感染するのは、その罪深い態度と行動のために、神から下る特定的な裁きとしてであろう。

 コロナウィルスは、キリストの再臨に備えさせるために、神から与えられた警鐘である。
                                     (ジョン・パイパー)

 創世記第3章(アダムとエバが神さまから禁じられていた実を食べたこと)で起こったのは、人が神を拒絶し、罪が世に入ったことです。その結果は、とりかえしのつかないものとなりました。死が入り込んだのです。まず、神の人との関係に亀裂を生じさせる霊的な死で、その後に肉体的な死です。加えて、自然にも同様のことが起こり、破壊されました。

 もしこの出来事(コロナ過)が、私たちの目を、長いこと無視し続けてきた神に向けさせるのなら、コロナウィルスは、引き起こした大規模破壊にもかかわらず、私たちが神と出会うきっかけをもたらすとも言える
                                    (ジョン・レノックス)

 この二人の学者は、いずれもコロナ禍と人間の罪との関係を指摘しています。コロナ過を神の裁きとする捉え方と、人間に害をもたらす自然界の乱れ(コロナ過もその乱れのあらわれ)を引き起こしている原因は、もとはといえばアダムとエバの犯した罪によるものという捉え方が示されています。
 そして、コロナ過を単なる災禍とせずに、警鐘や神への悔い改めのきっかけとして受けとめる意義が述べられてもいます。これらの言説は、コロナ禍の最中でなされたものですから、それだけ、世に向けての真剣な呼びかけであったことでしょう。
 しかし、それがどんなに真剣な思いでなされたものであったとしても、また真剣な思いでなされたものであればあるほど、強い違和感を抱かざるを得ません。弟子たちのあの問いに対してキリストがお答えになった「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」という言葉と調和しないからです。

 コロナ禍だけでなく、3.11のような大災害が起こったときに、いろいろな宗教者や宗教団体から発せられる天罰や警鐘を語る言葉を聞きます。こうした言葉は、宗教の違いを超えた普遍的な真理を表しているのでしょうか。キリスト教会も、聖書の言葉を引用しながら神の裁きと警鐘を語るべきなのでしょうか。現に先の引用にあるように、神の裁きと警鐘を語るプロテスタントの学者がいます。しかし、違和感を否定できません。なぜでしょう。神の裁きと警鐘は、確かに聖書から聞きとることのできるメッセージです。そうした裁きと警鐘についてキリストは生まれつきの災禍といってもよい目の見えない人をご覧になりながら一言もお語りになりませんでした。そのキリストが、3.11のような災禍をめぐって、裁きと警鐘を語ることをなさるでしょうか。

 さて『危機の神学』が紹介してくれている三人目のプロテスタントの学者は、私たちが傾きやすい発想とは異なる災禍の捉え方を提示しています。そのために、私たちがいま読んでいますヨハネの福音書にあります、弟子たちの「この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか」という問いを引用し、その際にこう述べています。

 今日、多くの人が持つ、コロナウィルスに関する問いとそれほど違わない問いでした。

 コロナ過はなぜ起こったのかという問いと、盲人についての弟子たちの問いは、それほど違ったものではないと言うのです。そして、キリストの語りました「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」という言葉についてはこう述べています。

 イエスは、仮説的な原因をふり返ることはしませんでした。むしろ、神がそのことに対して何をなさろうとしているのかと将来に期待しました。                   (N・T・ライト)

 聖書学者であるライトは、キリストの心が過去ではなくて将来に向けられていることに注目しています。不幸の現実が社会的規模のものであれ、個人的なものであれ、それが起こったときに、過去にさかのぼって原因をふり返り、原因探しをするという発想は、私たちにしみ込んでいるものといえます。その発想を乗り越えて、神さまがなさろうとしているのは何かという将来を見据えた発想をすることができれば、それはキリストの心に倣うものとなるでしょう。キリストもこうおっしゃっているからです。

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。」

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを行わなければならない」というこのキリストの言葉を注意深く聞きとりましょう。
 わたしを遣わされた方とは、父なる神さまのことです。その神さまのわざに関してキリストは、もし出来ることなら神のわざを行いたいというのではありません。もっと積極的に、神のわざを行うことにしようというのでもありません。キリストは、神のわざを行わなければならないと言っておられるのです。

 この「行わなければならない」というのは、例えば、お年寄には座席を譲ることを行わなければならないとか、納税は行わなければならないといったような道徳や義務を表わす「行わなければならない」とは全く別のことです。キリストは、神さまが定めておられることのゆえに行わなければならないと語っておられるのです。

 神さまは、この世界と私どもを決して棄てることをなさらない。そのように世と私たちの救いを定めておられます。それゆえに神のわざを行わなければならないとキリストはおっしゃるのです。
 あの生まれつき目の見えない人のことで言えば、この人のことを世間は皆、罪のゆえに神の祝福を受けられずに、呪いを受けた人と考えていましたが、ほんとうはそうではなく、神さまはこの人にご自身のみわざをあらわそうとしておられる。だからキリストは言われるのです。
「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを行わなければならない。」

 優れた医師は、病状を診るのはもちろんのこととして、患者であるその人をよく診るものです。そして、患者の思いや不安を知ろうと努めます。それに対して、病状の分析にしか関心のない医師は、患者を安心させる言葉がけをすることはあまりなく、かえって不安を与えてしまうことすらあります。

 コロナウィルスのような社会を覆うような危機にせよ、個人を襲う病気や事故にせよ、その災禍の現象そのものだけを捉えて原因を説くことは、その説明に真実が含まれていたとしても、災禍によって苦しんでいる人を慰めることにはなりません。そのような原因を語る言葉は、かえって苦しむ人の心を傷つけるものにすらなります。苦しんでいる人のことを知り、それを理解し受けとめることは、災禍の原因を探求しそれを語ることに勝ります。
 コロナ禍のような災禍を伝道の絶好の機会であるかのような捉え方をしてしまうとすれば、それはその災禍によって今、現実に苦しみ悲しんでいる人の姿が見えていないからです。そうした人の苦しみを受けとめることをせずに語られ、なされる伝道は災禍のもたらす禍の一部とすら言えるものです。こうした災禍を広げてしまう過ちに陥らないためにも、第9章1節に記されている言葉のもつ重みを、すなわち苦しみや悲しみに耐えて生きている人に、キリストが愛と憐みの眼差しを向けておられるという事実を私たちは忘れてはならないのだろうと思います。

イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。

(2025年8月10日 主日礼拝説教)