わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
早速ですが、今朗読されました聖書を受けとめるに当たり、最も重要な点と思いますことから始めてまいりたく思います。先ほどの聖書朗読から私たちが聞いたこと、それは〈誰かが良い牧者について語っていること〉を聞いたというのではありません。そうではなくて〈ある方が自分自身について語り、自分自身のことを「わたしは良い牧者です」と説いておられる〉のを私たちは聞きました。
この「良い牧者です」と語られているその牧者・羊飼いというものについて、日本で生活している私たちにはなじみがないからと言って、イスラエルの野原で羊を飼っている牧者について解説している書物から良い牧者について知ろうとしても、それはあまり役に立ちませんし、かえって誤解をしてしまいかねません。
今朝のみことばを理解するために私たちがすべきことは、野原で羊を飼っている牧者とはどういうものかということを調べることではなくて、自分自身のことを「わたしは良い牧者です」と語っているそのお方に集中し、そのお方のことを知り、受け入れ、信頼することです。そうすれば良い牧者という譬えによって語られていることの意味を理解することになるでしょう。
さて、それならば「わたしは良い牧者です」と語っておられるのは誰か、他でもありません。イエス・キリストです。ではイエス・キリストとは、いったいどんなお方か。そのことを私たちは既に知っているわけですが、この朝は、キリストご自身がご自分のことについてお語りになった幾つかの言葉を思い起こしてみましょう。ヨハネの福音書は、キリストが自分自身について語られた言葉を幾つも記しています。
「わたしは命のパンです」(第6章)
「わたしは世の光です」(第8章)
「わたしはよみがえりです。いのちです」(第11章)
「わたしはまことのぶどうの木です」(第15章)
これらの言葉をキリストは、自分を大きく見せようと尊大な口ぶりで語ったのではなく、ごく自然にお語りになりました。しかし、その語り口には聖なる威厳がありました。出エジプト記第3章に記されています、かつてモーセが聞きました、燃える柴の中から神さまがご自分のことを「わたしはある」と言いあらわされた言葉と同じ聖なる威厳がありました。そのような語り口によってキリストはおっしゃったのです。「わたしは良い牧者です」
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私どもの教団は今、『改革宣言』という文書を準備しています。この信仰による宣言は、前文、聖句に続いて『キリスト中心の愛し合う群れ』『キリスト中心の仕え合う群れ』『キリスト中心の開かれた群れ』という標題のつけられた三つの文章から成っています。そして、宣言文と同じぐらいに重要な文書として、宣言文についての解説がつけられています。この宣言文と解説を読んで行きますと、5回「危機」という言葉が使われて出てきます。直面している危機に向き合い、その危機のなかでしっかりと教会が生き続けることを願っての『改革宣言』であることを思います。
この宣言文を読みまして私がすぐに考えましたことは〈キリストへの集中〉ということでした。教会史を振り返りますときに、教会は危機の中に置かれたとき、信仰の姿勢を整え、また自らを改革することに努めてきました。その時に真っ先にしたこと、また最も重要なこととして実践してきたことはキリストへの集中であったとそういえるのではないかと思います。このキリストへの集中ということで度々、思い起こしております二つの事例についてお話させていただきたいと思います。
一つは16世紀、宗教改革者マルティン・ルターの信仰と神学に見るキリストへの集中ということです。ルターという人がいかにキリストの言葉に固着(しっかりとくっついて離れない)する努力をしていたか、その一つの証しといえるものがルターの著作に表されていたことを思い出すのです。
ルターは神学者に向けて本を書くときにはラテン語で書きましたが、民衆に向けての本はドイツ語で書きました。そのドイツ語著作の多くには、一見して誰にでもわかる一つの特徴があるのです。それは書物(本文)の冒頭に「イエス」と書かれていることです。有名な『キリスト者の自由』でもそうです。ルターのどの本を開いてみても、冒頭に「イエス」とある。これが「イエスを讃美しつつ」とか「イエスに感謝しつつ」というのなら分かるのですが、ぶっきらぼうに「イエス」とだけ書いてあるものですから、これはいったいなんだろうと思ったものでした。
「イエス」という名を記すことから信仰の書物を書き始める、これはルターなりのキリストへの集中でした。イエス・キリストへの徹底的な信頼に基づいて、すべてのことをイエスの名によって始め、行おうとする意志表明の意味で「イエス」とキリストの名を本の冠として記したのです。
こうしたルターの信仰と神学は、三つの「のみ」という言葉を用いて「聖書のみ、キリストのみ、信仰のみ」と言いあらわされるようにもなりました。聖書への集中ということはキリストへの集中と不可分でありました。そしてキリストへの集中は、信仰のみということと不可分のものであったのです。
もう一つは20世紀初頭に始まりました『危機神学』と呼ばれるようになった神学とそれによる運動、特にナチス・第三帝国との闘いに見られるキリストへの集中です。1933年、ヒトラーは政権を獲得すると教会に対しても支配の手を伸ばしてきました。その翌年につくられた通称『バルメン宣言』の第一条は、次のようになっています。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネの福音書第14章6節)
「まことに、まことに、あなたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。わたしは門です。だれでもわたしを通って入るなら救われます」(ヨハネの福音書第10章1、9節)
〈第一条本文〉
聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、生きているときにも死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である。教会が、この唯一の神の言葉以外に、それと並んで、別の出来事、さまざまな力、人物、さまざまな真理を神の啓示として承認し、宣教の源泉とすることができると考え、そうしなければならないと教える誤った教えを我々は退ける。
このバルメン宣言の第一条に掲げられている二つの聖句(それはいずれもキリストの言葉です)とそれに続く条文が、キリストに集中するためのものであることは一目瞭然です。この宣言文を採択した告白教会と呼ばれるようになった教会のグループは、キリストに集中することでナチスと戦ったといってよいでしょう。
教会は大きな危機の中におかれたとき、キリストに集中することでその危機を乗り越えてきたということは、教会はキリストの体であり、キリストが教会の頭であることからすれば、当然といえば当然のことです。しかし、その当然のことを心して、真剣に、誠実に実践していけるかどうか、そのことが常に教会に問われ、私たちに問われています。そのような問いかけを意識するときに、聞くべき言葉の一つを今朝は、ご一緒に心に刻みたく思うのです。
「わたしは良い牧者である。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」
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先ほど少し触れましたバルメン宣言を採択した告白教会が、キリストに集中するために始めた具体的な活動の一つに、説教を準備する牧師のために説教黙想と呼ばれる書物を何人かの神学者によってつくるということがありました。この取り組みに協力した一人にディートリ・ボンフェッファーがいます。今、私たちが読んでいる聖書テキストについてボンフェッファーは、黙想の最初にこういうことを書いています。
良い牧者であるイエス、それは一般的な牧者についてうたわれている歌や絵画などとは関係がない。そういうものから得られる解釈はすべて、この聖書テキストを破壊するものである。「わたしは、〇〇である」と訳される「エゴー・エイミ」というギリシャ語原文が用いられていることから、このテキストでは、牧者とその仕事について一般的なことが語られているのではなくて、イエス・キリストについてのみ語られていることは明らかである。
新教出版『ボンフェッファー説教全集3』より、一部加筆)
こう述べながらボンフェッファーは、説教を語る者に注意を呼びかけています。その注意とは、「わたしは良い牧者です」と語られたキリストにしっかり向き合い、こうお語りになったキリストがどのようなお方であるかを熟考しなさいということです。それをしないで「良い牧者」という言葉に関心が向いてしまい、良い牧者の意味を、野原で仕事をしている牧者から理解し、説明するようなことをしないようにということです。そのために、こんなこともボンフェッファーは黙想に書いています。
確かに、野原で仕事をしている牧者は、本当に忠実に羊の群れを引き受ける。しかし、群れのために自分を犠牲にすることだけは、牧者の責任として決して要求されてはいない。イエスはご自分が羊のために死ぬことのゆえに、ご自分を良い牧者であると言われる。「良い牧者」とは、イエス・キリストにだけに当てはまるのである。
キリストが「わたしは良い牧者です」とお語りになったとき、それは野原で羊を飼う一般の牧者の現実とは大きく異なる、いや全く違うと言ってもよいでしょう。ならば、なぜキリストはわざわざご自分を牧者に譬えたのかといえば、それはキリストと私たちとの関係を表すためであったといえます。「わたしは良い牧者です」と語ることのできるただ一人のお方であるキリストは、そのみことばと共に今も、私たちの只中におられることで、私たちの牧者であってくださいます。そして私たちをご自分の羊としてくださるお方です。私たちはキリストのもの、キリストの所有とされているのです。そのことを実現するためにキリストはこうも言われました。
「良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます」
この言葉を注意深く聞きとりましょう。ここでキリストは、わたしは良い牧者だから、羊が狼に襲われたときには、いのちを捨てでも羊を守る、と言っているのではありません。羊のためにはいのちを捨てる用意がある。その覚悟ができている。それが良い羊飼いである、というようなことを言っているではない。
「いのちを捨てます」とは、これから起こるかもしれない未来のことを言っているのでなく、今、既に始まっていることです。良い牧者であるキリストの歩みは、最初から羊たちのために命を捨てることに向けての歩みでした。つまり、十字架における死に向けての歩みでありました。
良い牧者の「良い」とは、何かと比較して良いというのではなく、ただ一つのことを理由としています。羊たちのために命を捨てること、私たちのために十字架のみ苦しみを受けること、その一事のゆえにキリストは「わたしは良い牧者です」と言われるのです。
このキリストに集中し、キリストの語りかけとして今朝のみことばを私たちが確かに聞くならば「わたしは良い牧者です」というこの譬えは、私たちにとってかけがえのない慰めとなり、教会にとってあらゆる敵の攻撃を防ぐための盾、シールドとなります。そして同時に「わたしは良い牧者です」というこの譬えは、私たちの自惚れ、思い上がりを戒め、警告するみことばともなるでしょう。
キリストに集中することは、挫折と隣り合わせであるといえます。ルターにしてもバルメン宣言を採択した告白教会にしても、キリストへの集中が常に理想的になされていたわけではありません。それゆえに告白教会のナチスとの戦いも十分なものではなかった、中途半端なものであったという批判もあります。
そして更に問題なのは、ルターやバルメン宣言を起草したカール・バルトといった危機の中にあった教会のために大きな役割を担った人たちは、後に賞賛され、権威付けのためにその名が用いられ、神格化されていったことです。たとえ「神の器」と呼ばれるような、敬虔な信仰に生き、神さまに身をささげて献身的に生きた人であっても、羊たちのために命を捨てたわけではありません。はっきり言わなければなりません。私たちは誰一人、例外なく良い牧者ではありません。良い牧者ではない人間の声が、教会の中で力をもつようになると教会は病んでしまいます。
「わたしが良い牧者です」と語るお方のみ声を聞き、そのみことばを語るお方に集中する羊の群れでありたい。そのために祈りたいと思います。
今、私の信仰の友のひとりが闘病生活を送っています。とてもお元気な方でしたから、九時間以上に及ぶ大きな手術を受けたという知らせを聞いたときにはたいへん驚き、ショックも受けました。その友人のことを覚えて、癒しと共に願っていることがあります。それは、「わたしは良い牧者です」とお語りになったキリストのみことば、キリストのみ声を闘病生活の中でその友人が聞くことができるように、それによって慰めと勇気が与えられるようにということです。そして、詩篇第23篇が神さまへの信頼を込めて言いあらわしています「主は、私の羊飼い。私には乏しいことがありません……私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから」という言葉が、その友人自身の言葉となるようにと願っています。病床にある患者と、患者を見守り、励ましておられるご家族や教会の方たちにも、良い牧者のみ声を聞くことができますように、そう祈り続けています。
(2025.10.15 教団牧師研修会早朝祈祷会説教)
