ルカの福音書第1章57~80節「ザカリアの讃歌」

待降節礼拝説教

 エリサベツの夫であるザカリアは「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい」と天使から告げられたときに「そのようなことを何によって知ることができるでしょうか。この私も年寄りですし、妻ももう年をとっています」と応じたことによって口がきけなくなっていた人でした。口がきけなくなった理由を天使は「あなたが信じなかったからです」と言っています。この一件はザカリアに、神はまことにおられるという強烈な畏れをもたらしたにちがいありません。

 妊娠期間が満ちてエリサベツに子が産まれ、名をつける日となったとき、父親となったザカリアは人々からどういう名をつけるのかと尋ねられると、書き板に「その子の名はヨハネ」と記しました。すると口が開きものが言えるようになりました。そこでザカリアは「聖霊に満たされて預言した」と聖書は記しています。その預言は『ザカリアの讃歌』と呼ばれ、『マリアの讃歌』とともに待降節(アドヴェント)の礼拝に欠かすことのできない聖句となりました。

 この『ザカリアの讃歌』は、ヨハネの誕生と命名がみ告げのとおりに実現したときに、ザカリアの口が解かれて語られたものですが、その内容はヨハネについては暗示程度に、76節のみに語られているだけで、後にマリアから生まれてくるイエスすなわちキリストについての預言となっています。『マリアの讃歌』よりも、よりはっきりとキリストのことが語られています『ザカリアの讃歌』は、降誕祭(クリスマス)を直前に控えた待降節(アドヴェント)にふさわしいものといえます。そこから今回は、むすびの部分ともいえる78~79節に集中して耳を傾けてまいりましょう。

これは私たちの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、曙の光が、
いと高き所から私たちに訪れ、
暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に日導く。

 キリストが馬小屋でマリアを母としてお生まれになったクリスマスの出来事は、神の深いあわれみによるものです。この「神の深いあわれみによる」という一言の重みを私たちはどれだけ心にかけているでしょうか。この短い一言が示していることに私たちの心が開かれるならば、それだけでも世界に対する、また自分自身の今の生活のありように対する私たちの見方は変わるでしょう。
 今の世界の情勢は簡単に変わりそうにありません。私たちがそれぞれに抱えている困難や試練ともいえる状況も思うように変わるとは限りません。しかし、私たち自身は変わることができます。今朝、ここで変わることも可能です。神の深いあわれみに対して心が開かれるならばです。そこで「神の深いあわれみによる」ということの意味を二つに分けて聞き取りたいと思います。

1、苦しむ者に目をお留めになる
 「神の深いあわれみ」という言葉から先ず知るべきことは、神さまは困難の中で苦しんでいる者、ザカリアの言葉で言えば「暗闇と死の陰に住んでいる人たち」に目を留めておられることです。この暗闇と死の陰に住んでいる人たちに神さまが目をお留になるということが既に神の深いあわれみによるものであり、そのあわれみは私たちの思いを超えて偉大なものであると言うことができます。

 その偉大さを知るために考えてみたいのです。私たちは暗闇と死の陰に住んでいる人たちのことを見続けることができるでしょうか。ニュースで一部分だけを映している事故や事件の様子をテレビなど見ていることはできます。野次馬のように事故現場に駆けつけて、何が起こったのかと自分の関心を満足させるために見ることはできます。しかし、真剣に暗闇と死の陰に住んでいる人たちを見続けることは私たちにはできませんし、それを本気でしようとするならば私たち自身が重い心を負うことになるでしょう。人が苦しんでいる様子や悲しみに崩れている様子を直視し続けることは辛く厳しいことだからです。ですから、はっきり言えば目を背けてしまうのです。
 そういうところで神さまは目を背けることをなさいません。深いあわれみのゆえに神さまは暗闇と死の陰に住んで希望を見出せずにいる人、死の恐れに孤独で向きあっている人に目を留め続けておられます。そして、そうした人を慰めるために、希望を与えるためにキリストを世に遣わしてくださいました。そのなさり方にもまさに神の深いあわれみが現わされることになったのです。

2、救い主の遣わし方
 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らすために世に遣わされるキリストのことをザカリアは「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ」と述べています。ゆえにクリスマスは曙の光の訪れと言うことができますし、『光の降誕祭』という言い方もあるわけです。
 この「曙の光」とは、そもそもは朝に東の水平線とか地平線から昇ってくる太陽の光りをあらわす表現です。この東の空に昇る太陽に、かつて日本が譬えられた時代がありました。戦後、急激な経済復興と成長を遂げた日本は東の空に昇る太陽のようであると言われたのです。なるほど、昇って行く太陽は力強い前進、発展、成長を表わすのにピッタリではあります。
 クリスマスの出来事を示す曙の光も暗い夜を終わらせる輝きを想わせるものですが、実際の太陽とは異なるところがあります。この曙の光は〈地平線から高みに昇って行く〉というのではなくて、高き所から私たちのいる〈低い所に降りて来る〉ことをザカリアは預言しているのです。

 高みからの好意、高みからの援助といったものは、助けが与えられることではあっても、ある種の圧迫を感じるものです。昔、殿様からの褒美を家来が断ることは普通ではありえないことでした。高みからの褒美にはそれほどの圧力がありました。
 「いと高き所からの訪れ」は本来、人間にとっては圧迫を受けるようなことになるものです。しかし、神に等しい方、神の御子である方が私たちのところに遣わされたとき、それは極めて人間的な仕方で起こりました。高みから低いところに向けての訪れは、うら若き乙女の驚き、その婚約者であった大工の困惑、藁のしかれた飼い葉桶にねせられている赤ん坊のほほ笑みといったまことに人間らしい、そして貧しいよそおいの中でなされたのです。
 そのおかげで、高みから訪れるお方のみ前に、私たちは子どものように歩みよることができるのです。いまだかつてないこの地上を訪れた最高位のお方を、赤ん坊として私たちのもとに遣わすことを良しとされたこと、これこそは神の深いあわれみによるものでありました。

 私たちには地上の生涯を生きている間、暗闇と死の陰との戦いが続きます。戦う勇気を失い、死の陰におびえ、無気力に落ち込むこともあるかもしれません。そのような私たちのためにいと高い所から訪れてくださったキリストのことをヨハネの福音書(第1章4~5節)は、まことにふさわしくこう記しています。

この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。

この聖句が示しているように、クリスマスにお生まれくださったキリストは、私たちの暗闇と死の陰との戦いにおいて橋頭保・砦となってくださいます。これに打ち勝つ闇はありません。
 来週はクリスマスの礼拝を祝います。そこで讃美歌『きよしこの夜』を歌います。その3節はこう歌います。

きよしこの夜 御子の笑みに
恵みの御代の 朝(あした)の光
輝けり 朗らかに

飼葉桶の赤ん坊のほほ笑みに「朝の光」が輝くとうたうこの歌詞は『ザカリアの讃歌』にあらわされている曙の光がいと高き所から私たちに訪れた事実を適切に、慰め深くうたいあらわしています。このきよらかな讃美歌をうたいながら、暗闇と死の陰との戦いを生き抜きたいと思います。そのように生きるひとりひとりが、闇に打ち勝つキリストによるいのちの光を感じとれるほどに、豊かに照らされますように。

(2025年12月14日)