人が集まって団体をつくるところに、必ずと言ってよいほどに起こる問題があります。それは、いつの時代にも見られたことですし、またどこの国、どの民族にも見られたことです。その問題とは、年長者と若者との間に起こる、意見や考え方の違いをめぐっての対立です。そのような対立が教会にもあったからでしょう、今朝の聖書にあるような教えが語られているのです。
もっとも、聖書が語っていますことは、単純に年長者と若者との対立ということを問題にしているとは言えない面があります。というのは、今朝の聖書は「年長者」という言い方をしてはおらず「長老」と言っているからです。長老とは、教会のなかで責任を担っている働き人に対する呼び名です。今日でいえば、牧師や教会役員に当たる人たちと考えてよいでしょう。
ですから1節から4節を、牧師や役員といった立場にある人は、これをしっかりと受けとめなければなりません。「神の羊の群れを牧しなさい……心を込めて世話をしなさい」「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」といった言葉を牧師や役員は肝に銘じ、教会における自分の発言と行為について自己吟味できるようにする必要があります。
そのような長老に対する教えの後に、今度は、そのほかの教会員、一般の信徒たちに対してというのではなくて「若い人たち」に対する教えが続きます。
このことから、今朝の聖書の教えは〈長老と一般信徒〉の関係よりも〈年長者と若い人たち〉の関係が意識されていると言えるのです。そうであるならば、前半の長老に対する教えを――私は牧師でも役員でもないから関係ないと、通り過ぎてしまうのではなく、自分よりも若い教会員と向き合って何かを話しあうときに、この長老たちへの教えを思い出せるようにしておくべきでしょう。
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さて、教会という共同体をかたちづくっている長老としての働き人・年長者と若い人たちのそれぞれに教えが語られた後、双方に共通する教え、つまり、全教会員に対する教えが語られます。
みな互いに謙遜を身に着けなさい。
この手紙を書いたペテロが、年長者にも若い人たちにも一番言いたかった教えは、互いに謙遜を身に着けるということ。このひとつに尽きるのです。
ここで注目すべきことは、ペテロが謙遜について、それを「身に着けなさい」という言い方をしていることです。心を入れ替えて謙遜になりなさいというのではなくて、まるで衣服を身に着けるように、謙遜を身に着けなさいという。あなた自身の心が謙遜になれないのなら、謙遜という衣を身に着けるようなつもりで謙遜になりなさい、と言わんばかりの強い勧告といってよいほどの言葉遣いです。
最初に申しあげたように人が集まって団体をつくるところ、年長者と若者との間で意見や考え方の違いが出てくる。このことは教会も例外ではありません。教会は、世間の会社や学校などの団体に比べれば小さな集まりでしかないのですが、その割には、教団や教派のもつ伝統(それはたかだか数十年程度のものなのですが)をめぐって、あるいは個々の教会の礼拝をはじめとする活動の在り方をめぐって意見の対立を生じさせ、共同体としての一致を欠くことが起こりやすい危うさをもっている面があります。その危うさを手紙の著者は知っていたからこそ、教会に集まる者たちに呼びかけているのです。
みな互いに謙遜を身に着けなさい!
ところで、謙遜が大切であるということを語るにあたり聖書は、教会共同体を危うさから守るために謙遜を……という言い方をしていません。この手紙を書いたペテロは、謙遜の大切な意味について、人間関係を中心にしてではなくて、神と人との関係を中心に捉えているからです。それゆえ謙遜が大切な理由をこう語るのです。
「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
この言葉は、一般に使われる謙遜の意味にはない、極めて信仰的な意味を示しています。つまり謙遜とは、物事を穏便に治めるための好ましい徳のひとつというようなものではなくて、神が私たちをどのように扱われるか、そのことを左右するほどのものであるということです。なぜ、そうなるのか。高ぶるとかへりくだるということは、人間どうしの関係に止まらず、神との関係にまで及ぶものだからです。その結果、相手に対してへりくだることができずに高ぶる者は、そのとき同時に、無自覚にも、神に対しても高ぶる者になってしまっているのです。ですから、神にはへりくだることができるけれど、人に対してはつい高ぶってしまう、ということはありえないのです。
教会のなかで、何か意見の対立を見るような問題が生じたとき、へりくだることに務めたことのある人なら覚えがあるでしょうが、へりくだるということは容易なことではありません。こちらがへりくだることで相手も少しは態度を変えてくれるかといえば、そういうことはほとんどありません。むしろ、こちらが静かにしていることをよいことに、いよいよ、その人の自己主張を強めるだけの結果になることもあります。
そもそも、へりくだるということは交渉の手段であってはならないのです。では、正しくへりくだるためにはどうしたらよいのか。聖書はこう勧めています。
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
意見や考え方の相違があるならば、誠実を尽くして合意点を見出せるよう努めなければなりません。しかし、それでも解決が得られない場合、自分の主張に固執することを止めて〈問題を神にゆだねること〉と〈へりくだること〉とは結びついています。
神は生きておられます。ゆえに、神には私たちの問題に解決をもたらす力がある。神は強引なお方ではありませんが、力強いお方です。その神がご自身の教会のために必要な導きを与えてくださることに信頼して、問題となっている事柄の進み行きを神にゆだねて見守る。それが神の力強い御手の下にへりくだるということです。
私たちには、神の御手の力に頼るしか、自分をへりくだらせることはできないといえましょう。ですから、そのことを実践しようとする者に対して、聖書は慰めに満ちた約束と励ましを述べてくれてもいます。
神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神が、あなたがたのことを心配してくださるからです。
神さまが、思い煩ってしまっている自分のことを心配してくださっている。それほどまでに、神さまは分かっていてくださる、ということです。この神さまにならゆだねることができる。そのようにして、心の柔らかさを失わないようにすることは、神に対する悔い改めの実践の一つといえるものです。
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これまで聞いてきた謙遜とへりくだりについての教えは、ペテロによる思弁の産物ではありません。ペテロは、真実の謙遜に生きたお方を知っていました。そして、そのお方に倣うことこそが、神の教会をあらゆる不一致、混乱から守るために教会員ひとりひとりが心得るべき道であることを知っていました。そのことをペテロ自身、教会とのかかわりを通して体得してきたのだろうと思います。その模範とすべきお方、すなわちキリストについて、ピリピ人への手紙(第2章6~9節、協会共同訳)は、印象深く次のように記しています。
キリストは、神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして僕の形をとり
人間と同じものになられました。
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ
あらゆる何にまさる名をお与えになりました。
クリスチャンにとって謙遜とは、人間としての徳行のひとつというのではありません。私たちが身に着けるべき謙遜とは、罪に満ちたこの世と人を救うために、神と等しくあることに固執しようと思わずにへりくだり、十字架の死に至るまで従順であったキリストを本気で模範とすることです。
そしてこの謙遜は、へりくだられてご自分を低くされたキリストを神が高くあげられたように、真実にへりくだる者を神が高く上げてくださること、すなわち、神と共に生きる喜びを大きく確かなものとしてくださることを本気で望み見る信仰へと進み行かせるものとなります。こうして、私たちが身に着けるべき謙遜には、大いなる約束が与えられてもいるのです。
(2024年8月 主日礼拝説教)