神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(16節)
この聖句は、聖書のゴールデン・テキスト、黄金の聖句と呼ばれ、教会で耳にすることの多い聖句のひとつでもあります。この言葉には、神による救いの真理が凝縮して表現されており、それゆえに黄金の聖句と呼ばれるようになったのでしょう。そして広く覚えられ、親しまれようになりました。
聖書の言葉が多くの人に覚えられ、親しまれるようになるということはとても良いことです。ただ、そこに生じてくる問題もないわけではありません。それは、この聖句をわかりやすいものだと思ってしまう。あるいは、よくわかったつもりになってしまうということです。
――この言葉は何よりも神さまの愛を語っている。神さまの愛は、ひとり子を与えてくださるほどに大きい。そのひとり子とはイエス・キリストのこと。私たちの救いのためにキリストは十字架にかかり死の苦しみをお受けになった。まさにそのことのために神はひとり子をお与えくださった。このような神の愛をこの聖句はあらわしている、という具合にです。
1、世を愛され、世を救われる神
なるほど確かに、この聖句に神の愛が示されているということは間違いのないことです。ただ、ここで立ち止まって自問すべきは、この神の偉大な愛について、私たちは額面通りに受けとめているだろうか、ということです。そして、その際に注目しなければならないのは、神がひとり子をお与えになったほどに愛された、その愛は「世」に向けられているということです。
神は、ひとり子をお与えになったほどに「世を愛された」ということを「世に生きている人々を愛された」というふうに、性急に「人々」への愛としてしまうことはこの聖句の意味を損なうことになります。というのもヨハネの福音書は「世」という言葉を意識して大切に用いているからです。ですから、世に対する愛のゆえにお与えくださったひとり子については続けてこうも記しているのです。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(17節)
ここで語られている「世」とは、人間だけでなく動物や植物、また生きとし生けるものがその生死の営みの場とする大地、海と空の一切を含んでいます。讃美歌や聖歌には『万有の主よ』とうたうものがあります(新聖歌23番)。万有とは、地球も含めた宇宙にあるすべての物体を意味しています。世とは、まさに万有の主である神さまによってつくられた被造物全体を指しています。その世を神さまは愛され、世を救うために御子キリストを世に遣わされたのです。このような世の救いについて記している聖書の言葉はほかにもあります。
このお方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。(ヨハネの手紙一 第2章2節)
このお方とは、いうまでもなくイエス・キリストです。世全体の罪のために十字架におかかりになり宥めのささげ物となられたキリストについては、洗礼者ヨハネがこう証言しています。
見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネの福音書第1章29節)
世の救いについて記しているのは、いわゆるヨハネ文書だけではありません。パウロ書簡にも次のように記されています。
神はキリストにあって、世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず(新共同訳「人々の罪の責任を問うことなく」)、和解の言葉を私たちに委ねられました。(コリント人への手紙二 第5章19節)
これらの言葉が示しているのは、御子キリストによって成し遂げられた救い、すなわち罪が取り除かれ、神との和解が与えられる救いは、世全体に及ぶということです。そしてそこには、信じる者、信じていない者という個人の信仰は問われていません。徹頭徹尾、神による完全な、一方的な愛の働きであるキリストの十字架における受難によるものです。この偉大な愛による万有の救いについて、コロサイ人への手紙はこう記しています。
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています……。神はご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。(コロサイ人への手紙第1章19~20節)
神さまは万物とご自分との和解を成し遂げてくださいました。この和解は、ひとりひとりがキリストを信じた時に実現するというのではありません。約2000年前にキリストが十字架にかかられて苦しみを受けてくださった時に和解は成立しているのです。この〈万物との和解〉を成し遂げた神の偉大な愛をヨハネの福音書は、大いなる福音として指し示すのです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された!
2、御子を信じる者が永遠のいのちを持つ
圧倒的ともいえる神の愛を語るゴールデン・テキストの後半に移りましょう。そこにはこう記されています。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ここには、「御子を信じる者」が「永遠のいのちを持つ」と明言されています。そして「一人として滅びることなく」と語ることによって、御子を信じない者は、永遠のいのちを持つことなく滅びることを示しています。つまり救われるためには、御子キリストへの信仰がひとりひとりに求められているということです。このことを直接的、間接的に語っている言葉は他にもあります。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そしてそこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者は少ない。(マタイの福音書第7章13~14節)
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。(マルコの福音書第16章16節)
このような、救われる者と滅ぶ者とが分けられる〈二重の裁き〉を暗示し、また明言する言葉を聖書に幾つも見出すことができます。ヨハネの福音書も「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」(18節)と記しています。
こうして聖書には〈万物との和解〉と〈二重の裁き〉を語る言葉の両方が記されているのです。そして、その両方の言葉を凝縮しているのが、ヨハネの福音書のゴールデン・テキストといえます。
◆
さて、それならば〈万物との和解〉と〈二重の裁き〉を語るそれぞれの言葉の両方をどのように受けとめたらよいのでしょうか。そのことを考える際に思い出したいことがあります。それは、今、私たちが読んでいます聖書は、そもそもニコデモとキリストとの対話を記している箇所であるということです。
ニコデモは悩みとも疑念ともいえる問題をたずさえて夜、キリストを訪ねました。ニコデモが抱えていた問題、それは自分が生きているこの世の現実に、神のご支配を見ることができないということでした。――神がおられるのならなぜこんなことが起こるのか、こんなことがゆるされるのか、神のご支配が分からない……このようなニコデモとキリストとの対話がゴールデン・テキストを生んでいるのです。
※新共同訳聖書は10節~21節までをキリストの言葉として「」で括っており、16節もキリストの言葉としている。ルターも16節をキリストの言葉としている。
私たちが目にする世にも、大震災や戦争、さまざまな災害や事件によって、実に多くの人が亡くなるという悲惨の現実があります。このような世を神さまはどのようにご支配なさっておられるのか、そのことが分からない……。私たちもニコデモと同じです。そのようなニコデモと私たちに対する答えのなかにゴールデン・テキストは記されている(キリストはゴールデン・テキストとなるみ言葉を語られた)のです。
そのことを踏まえて〈万物との和解〉と〈二重の裁き〉を語る言葉の両方をどのようにうけとめたらよいのかということに向き合うならば、こう申しあげることできます。
神さまは、世を愛して御子キリストを世に遣わし、2000年前に十字架によるキリストの受難によってご自身と万物との和解を成し遂げてくださいました。この救いの〈事実〉を、ひとりひとりが自分の〈現実〉とするためには、神の愛に信頼し、その愛のゆえに遣わされた御子キリストを受け入れる信仰が必要であるということです。このことを理解するヒントとして次のようなことを考えてみましょう。
回復の見込みがなく、余命を告げられていた患者がいました。患者自身、希望を失い諦めていました。ところがこの患者の担当医は諦めていませんでした。そして、ついに奇跡的に患者の病気を治すことを成し遂げました。医師は患者に告げました。「もう大丈夫です。あなたの病気は治りました。あなたはもうあの病のために死ぬことはありません」と。
ところが、患者は、喜ばしい知らせを語ってくれている医師の言葉を信じようとはしませんでした。そして、その後も、自分は病に侵され続けており、命はわずかしか残されていないという恐れと不安に苛まれながら毎日を過ごしました。
このような患者は、救われていると言えるでしょうか。命を脅かす病はもうすでに治っている。その意味では救われているのです。それが事実です。しかし、その事実が患者にとって現実になっていないのです。救いの事実を現実のものとするためには患者自身が、医師の言っていることを信じなければなりません。
第二次大戦の戦時下のことです。ナチスによる迫害と殺戮から逃れるために、アルプスの山奥に身を潜める生活を始めた人がいました。そこでの生活は、人が生きるにはあまりにも自然環境が厳しいものであり、異常なことでした。
その後、ドイツが敗戦してナチスも崩壊しました。しかし、身を潜めていた人は、その事実を知らなかったため相変わらず山奥での厳しい生活を続けていました。後に、ナチスが滅んだという知らせを聞くと、それを喜んで受け入れ、山からおり人間らしい生活をすることができるようになったのでした。
病気はすでに治っている。ナチスはもうすでに崩壊している。救いはもうすでに実現しているのです。しかし、それを信じないと、それを知らないと、実現している救いを喜ぶこともできないし、その救いを感謝しながら生きることもできません。
ただしかし、そこで見落としてならないのは、医師の言うことを信じることのできない患者であっても、病気が治っているというその救いは事実であるということです。そして、それは実に大きな救いではありませんか! ナチスが崩壊したことを知らなかったために、続ける必要のない厳しい生活を送っていたとはいえ、命を狙われることはなくなり、ナチスからはすでに救われているという事実はまことに大きい。こうした救いの事実を無視したり軽視したりすることは正しいことではありません。
神による万物の和解というすでに実現している救いの「事実」(fact)は、世を救おうとするはかり知ることのできない〈神による永遠の愛〉によるものです。それに比べれば、信じる、信じないという〈人の意思は限られたひと時のもの〉であり永遠ではありません。しかし、そうではあっても、神による救いの事実を、ひとりひとりにとっての救いの現実とするためには、神の成し遂げてくださった救いの事実を知り、それを信じることが重要であり必要なのです。その理由は、御子を信じる者が永遠のいのちを持ち、救いの「現実」(reality)に生きることができるようになるからです。
3、永遠のいのち
この世を愛し、世を救うために神さまが遣わしてくださったキリストを信じるということは、神さまとの信頼関係のなかに生きること、神さまとつながって生きるということです。永遠のいのちとは、永遠である神さまとつながることで、永遠ではない、限界と弱さや欠けをもつ私たちが、それでも死を恐れずに、人生の悲しみや困難を神さまに支えられながら生きる者とされる。それが永遠のいのちを持つということです。
それに対して滅びるとは、神さまとの関係、つながりが断たれた状態をいいます。キリストのお語りになった譬えに『いなくなった羊』というのがあります。百匹の羊のうちの一匹がいなくなったために羊飼いがその一匹を探し求め、見つけ出したときに大喜びをするという話しです。そこで語られている羊飼いのもとから「いなくなる」という言葉は「滅びる」と聖書原文は同じギリシャ語です。自分を大切にして守ってくれている者の手から離れていなくなり、失われた存在になってしまうことが滅びるということです。羊飼いが、一匹たりとも羊を失いたくないように、神さまは人間ひとりひとりの存在を失いたくないのです。
キリストを信頼しない、あるいはキリストのことを知らないために信じることができない人間の状態というのは、飼い主から離れていなくなった羊のようなものです。そのような状態を、はっきりと私たちに教え諭すために厳しく「滅びる」という言葉も使うのです。ただ、そのような時でも無視してならないのは、神さまがすでに和解をしてくださっているという事実、その意味での決定的な救いの事実に変わりはないということです。
それゆえに、ピリピ人への手紙に記されていますキリストによる救いの出来事をうたう『キリスト讃歌』は、キリストが到来するときに実現する将来を、平和で栄光に輝く万物のヴィジョンで締めくくっているのです。ヨハネの福音書の『ゴールデン・テキスト』と、ピリピ人への手紙の『キリスト讃歌』とから聞こえてきます、喜びの報せ・福音が、全ての人の慰めとなり、希望となりますように!
キリストは神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして 僕の形をとり人間と同じものになられました。
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで 従順でした。
このため神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって
天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが 膝をかがめ
すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して
父なる神が崇められるためです。
(第2章6~11節 協会共同訳)