主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。
歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
(詩篇第118章14~15節 協会共同訳)
この詩篇の言葉は、特にクリスマスの季節に読まれることが多いというわけではありません。しかし、この詩篇にはクリスマスにふさわしいことがこう記されています。
「歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く」
1、勝利の声が響くところ
「天幕」とは、屋外で夜を過ごすときに、雨や風をしのぐために張るテントのようなものです。きちんとした建物ではありません。身を寄せる仮の宿のようなものです。
こうした天幕から歓喜と勝利の声が聞こえてくるということは世間一般のあり方からすると普通ではありません。というのは、昔も今も、歓喜と勝利の声というものは、天幕のような粗末な所からは聞こえてこないものだからです。では、どういうところから聞こえてくるのか。
今年一年を振り返ると、北朝鮮がずいぶんたくさんのミサイルを日本海に向けて発射しました。そのミサイル発射が成功するたびに勝利の声が響いていたことでしょう。ミサイル発射をはじめて間もない頃は、発射成功を喜ぶ権力者たちの様子がニュースで報じられていました。その様子はまさに勝利を喜んでいるかのようでした。そして、そのような勝利の声は、国家の威信を示す立派な建物から、勲章を散りばめた制服に身を固めた大勢の着飾った人々が拍手をしている大広間から響いてくるのです。
こうしたことは何も北朝鮮に限ったことではありません。米国でも日本でも、スポーツ選手の活躍や科学者がノーベル賞を受賞したときなどには、多くの人が集まる華やかな場所で喜びの声があげられるのが常です。こうしたことを今朝の詩篇と関連づけて言うならば、こう申しあげることができるでしょう。
人間が獲得する勝利を喜ぶ声は、天幕からではなく、たいていの場合、立派で華やかな建物・場所から聞こえてくるということです。
それに対して、神が獲得される勝利すなわち神の栄光があります。今、私たちが聞いている聖書が示している勝利とは〈人間の獲得する勝利〉ではなく、神が私どもを救うために成し遂げてくださった〈御救いのための勝利〉のことです。
そのような神の勝利・神の栄光を喜ぶ声が聞こえる所とは、立派で華やかな場所からではなく、粗末な天幕のような所であることを聖書は示しています。そのことは、とりわけクリスマスの出来事のなかに見ることができます。
2、クリスマスに神の栄光を喜ぶ声が響いたところ
救い主がお生まれになった時、そのことを喜び、神の栄光を讃美する声が響いてきたのは、エルサレムにあった宮殿からではありませんでしたし、神を礼拝するための壮大な神殿からでもありませんでした。
そうではなく、天幕をはり――それすらもなかったかもしれません――野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちのいる野原において、主の栄光をうたう天使の声が響いたのでした。
天使による救い主誕生の報せを聞いた羊飼いたちは幼子を探しだし、救い主を与えてくださった神をあがめ讃美しました。その場所は、やはり天幕と同様に粗末な馬小屋でした。
実に、世界で最初のクリスマスを喜ぶ賛美の声は、天幕のような貧しいところから聞こえてきたのでした。神さまは、天幕のなかに喜びの声をあげる恵みを注がれたからです。
3、今日においても神による勝利の声は天幕に響く
さて、今、申しあげてきたことを私たちの現実に当てはめて考えてみましょう。そこで、先ず考えなければならないことは、私たちにとっての天幕とは何かということです。
立派な建物と天幕との違いを考えるときに重要なことは、建築上の構造や大きさの違いではありません。決定的な違いは、そこにいることで〈人間の獲得した勝利と栄光〉を見るか、それとも〈神さまが成し遂げてくださった勝利と栄光〉を見るかの違いです。
野宿していた羊飼いたちの天幕と野原、そしてキリストがお生まれになった馬小屋というのは〈人間の獲得した勝利と栄光〉を見ることはどうあっても無理な場所でした。
ですから、こうも言えるでしょう。人間の栄光が何も見えなくなる場所、その代わりに神の栄光が見えるようになる場所、それが私たちにとっての天幕であると。そのことを踏まえて、二つの例を考えてみます。
私たちには立派な宮殿とはいえないまでも、住み慣れた住まい、暮らしやすい環境、安心できる居場所である「自分の家」があります。その家を出て、別の所で生活することを余儀なくされる場合が起こり得ます。
例えば、病院に入院する。慣れない土地に引越しをする。あるいは、地震などの天災により家を失い、避難所に身を寄せる。そうした「別の場所」が、私たちにとっての天幕になるかもしれません。
住み慣れた「自分の家」ではない「別の所」に暮らすということは辛いことが多いものです。人の目に映る現実としては、歓喜と勝利を失った所といえるかもしれません。
しかし、その「別の所」にいることで、もしかすると自分の家に住んでいた時よりも、神の勝利と栄光を知ることができるようになるかもしれません。聖書が証言しているように「歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く」からです。
そのことを心に留め、今も、さまざまな理由で家を離れて生活をしている方たちが、神を知る正しさという恵みを得ることができますように、そして、そうした人たちのいる所が、神の勝利を喜ぶ声の響く天幕とされることを祈りたいと思います。
◆
私たちにとっての天幕を考えるときにぜひ想起したいパウロの言葉があります。
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。わたしたちは天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻(うめ)いています…… この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。
(コリント人への手紙第二第5章1~4節)
パウロはここで、自分の体のことを幕屋と言っています(幕屋と天幕とでは違いがありますが、ここでは同じ意味でとらえて良いでしょう)。そして、「この地上の幕屋にあって呻いている……重荷を負って呻いている」とまで言っています。パウロは病気を持っていました。それが癒されることを「三度主に願った」ということを手紙に書いてもいます。しかし、癒されることはありませんでした。そのような痛みを抱えている肉体をパウロは「幕屋」と言っているのです。
宮殿や神殿に比べれば、幕屋は質素なものであり、堅牢さにおいて貧弱なものです。そのような幕屋の弱さにパウロは自分の肉体の弱さを重ねています。しかし、それだけではありません。旧約聖書において幕屋は、神を礼拝するための移動式の聖所でした。その幕屋のなかに神さまは御救いを喜ぶための恵みを注いでくださることをパウロは知っていたのです。
心と精神も含めた肉体が病み、痛むことは辛いものです。この辛さが早く去ってほしい、なくなってほしい……という思いが心を占めるとき、もはやそこには〈人間の獲得する勝利〉は微塵もありません。そのときこそ、神さまが私どもを救うために成し遂げてくださった〈御救いのための勝利〉を喜ぶ準備ができていると言えましょう。
天幕から歓喜と勝利の声が聞こえてくるということは世間一般のあり方からすると普通ではないと冒頭に申しあげました。それだけに、天幕からの歓喜と勝利の声を世間の人たちが聞くことになったとき、それは、次のような不思議な感心を呼び起こすものとなります。――あの人の境遇はまったく余裕のない辛いものであるはずなのに、それでも希望をもって生きている。それだけではなく、優しさと感謝をなくすことがない。人徳といってしまえばそれまでだが、いったい何がそうさせているのだろう……と。
教会において、神の栄光を喜ぶ声が響くときとして、教会堂を建てあげた時があります。会堂建築は、神さまの助けなしには実現できない事業だからです。ですからその事業が果たされたとき、その教会堂からは歓喜と勝利の声が聞こえてくるものです。しかし、その声を世間は、必ずしも神の勝利を喜ぶ声として聞くとは限りません。むしろこう聞き取ることが多いかもしれないのです。――あの教会の信者さんたちはよく頑張ったものだ。献金はたいへんだったろうに…… そのように神の勝利が人間の勝利に据え変えられてしまうことも珍しくありません。
しかし、人間が獲得する勝利を見出すことが無理としかいいようのない、それゆえに精魂尽き果てたところから聞こえてくる歓喜と勝利の声は、神の勝利・神による御救いを指し示すものとなるのです。
ですから辛いときこそ、そして今こそ、クリスマスの讃美歌をうたおうではありませんか。私たちひとりひとりにとっての天幕の現実のなかに、神さまが讃美歌をうたう恵みを、歓喜と勝利の声をあげる祝福を注いでくださいますように!
(2024年12月1日)