2024年待降節第3主日礼拝説教
ヨハネの福音書は、クリスマスの物語についてはただの一言も触れていません。救い主を身ごもったマリアといいなづけヨセフの物語。天使によるキリスト誕生の報せを聞いた羊飼いたちが馬小屋にかけつける物語。お生まれになった救い主をめぐるヘロデ王や東方の博士たちの物語は、もっぱらマタイとルカの福音書によるものです。
こうしたクリスマスの物語について全く沈黙しているヨハネの福音書ですが、その第1章には、クリスマスの意味を印象深く表現している言葉が連なっています。その一つである9節は、ご降誕されたキリストについてこう記しています。
まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。(協会共同訳)
キリストについての「まことの光」という呼び名は、福音書の著者ヨハネの創作ではありません。ヨハネの福音書第1章1~14節は初代教会でうたわれた讃美歌がもとになっているといわれています。ヨハネの福音書が書かれた時代、クリスチャンたちは喜びを込めてキリストをまことの光と呼び、また歌ったのです。
このまことの光であるキリストが世に来たことを祝うのがクリスマスです。キリストのご降誕により、まことの光がすべての人を照らす時代が始まったのです。
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この光のことを聖書が「まことの」という言うとき、そこに二つの意味を読みとることができます。一つの意味は、その光そのものが偽りではなくまことであるということ。すなわち、他にある光源の照り返しによって光っているというのでなく完全な光であるということです。そのことに伴うこととして、もうひとつの意味を覚えておきたく思います。
それは、まことの光はすべての人を照らすことによってまことと偽りを区別し、識別させる働きをする光であるということです。それは、より具体的にはこう申しあげることができます。
まことの光によって照らされるとき、それまで見えていなかった人間の罪が露にされます。まことの光は、うわべの偽りに隠されている罪を照らし出す働きをするからです。
その上でより重要な働きとしてまことの光は、罪深い人間を見捨てずに、深い赦しをもって受け入れてくださる神がおられることに気づかせ、あるいはその神を見失わないように、愛の神に心を向けるための助けとなります。
こうした働きのゆえにまことの光は、人の生死と生き方に深く関わるものとなり、その光りの受けとめかたは真剣なものとなります。この光の降誕祭であるクリスマスは、楽しく祝うものですが、それ以上に真剣なものとなります。
数年前のことになりますが『有頂天家族』という京都の下賀茂神社に巣くっている狸たちの生活を描いたアニメを観ていたとき、主人公の狸が言ったセリフが妙に心に残っていて今でも思い出すことがあります。その狸はこう言ったのです。 ――俺たち狸はクリスマスが大好きです。何のために喜ぶのか分からないというところが気に入っています……。アニメを一緒に観ていた娘と大笑いしたものですが、今は笑ってばかりはいられないと思っています。考えてみてください。
――わたしたちはクリスマスが大好きです、と言ったあと、その理由をきちんと言葉にすることができるでしょうか。それができるとして、クリスマスの喜びを語る言葉が色褪せ、クリスマスの喜びそのものがすり減って、薄っぺらいものになってしまってはいないでしょうか……。
クリスマスの喜びを新しくするために、まことの光が私たちの生死に深く関わる真剣なものであることを受けとめたく思います。その手かがりとして、少々、特殊な事例を紹介しましょう。
1944年12月、ヨーロッパにおける第二次世界大戦でのことです。もうこの頃は、ドイツの敗戦は遅いか早いかの問題であり、早ければクリスマスまでに戦争は終るのではないかという空気が米英軍の兵士たちの間に広まっていました。
そのようなときにドイツ軍による最後の反撃が行われました。のちに『バルジの戦い』と呼ばれて有名になった大反攻作戦が決行され、これに米軍はあわてふためいて一時は大混乱に陥ります。しかし、ドイツ軍の反撃は長くは続きませんでした。
この戦いの中で、三人のドイツ軍捕虜が米軍によって処刑されました。この三人は特殊な任務に当たっていました。それは米軍の軍服を着て、つまりアメリカ兵になりすまして情報を集め、また米軍の情報網の混乱を生じさせるというものでした。こうしたいわゆるスパイ行為を行った者は、捕虜としての待遇を受けることができずに、処刑されることが普通でした。
処刑執行の日、夜明けが近づいてきたとき、三人の捕虜に――最後に何か望みがあるか、と慈悲の言葉がかけられました。こうした場合、最後にタバコを吸わせてほしい……と願ったりすることがあるようですが、死刑のために引き出された三人が願ったことは――この捕虜収容所にはドイツ人女性の捕虜がいると聞いている。彼女たちの歌うクリスマスの讃美歌を聴きながら死にたい、ということでした。この願いをアメリカ兵は受け入れました。
女性の捕虜約20名が、処刑される三人には見えない場所に整列し、そこで歌ったのは『もろびとこぞりて』でした。女性たちは、アメリカ兵も良く知っている讃美歌をうたいはじめ、二節目に入ると声を高めて歌いました。その時、銃声が響き三人は雪のうえに倒れました。それでも女性たちは歌い続けました。
女性たちの歌う『もろびとこぞりて』を聴きながら、処刑に立ち会ったアメリカ兵たちは、ただでさえ後味の悪い処刑執行に――俺たちはいったい何をしているのか……と罪悪感すら覚えたようです。
このとき、讃美歌をとおしてまことの光が、処刑される側の三人を、また処刑を執行する側の人々を、それぞれに照らし出していたことを思います。
まことの光を歌いあらわしているクリスマスの讃美歌は、死を前にしてる者を照らし、罪の縄目に捕われている者を解放する神の愛を仰がせる光りとなりました。そして同時に、戦争によって麻痺してしまっている心を照らし、人間らしい心を取りもどさせるために、罪の自覚を呼び起こす光ともなりました。
クリスマスに楽しい気分に浸ることはあってもよいでしょう。しかし、クリスマスによる喜びそのものは真剣なものなのです。
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すべての人を照らすためのまことの光が実際に人々を照らすとき、それは照度・クルスとして測れる光としてではなくことばとして届くものとなります。そのことを知るために、ヨハネの福音書が記している初代教会の讃美歌とされている次の聖句を心に留めましょう。
初めにことばがあった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。(1~4節)
この聖句(讃美歌)のはっきりとした特徴は、世に来られたキリストを「ことば」として受けとめていることです。そしてこのことばのなかにいのちがあり、光があると歌っています。それゆえに次のようなことが起こるのです。
まことの光は、キリストを証言する聖書や聖書のメッセージをうたう讃美歌を媒介にして人々に届くとき、人はその届いた光を言葉として認知します。そのようにして、まことの光は、神のことばを認知させるものとなるのです。
実際に人々が認知するのは光ではなくことばであるというのなら、「まことの光」ではなく最初から「まことのことば」と言えばよいのではないか?と、お思いになるかもしれません。しかし、ことばが届いたとき、人はそのとき、暗さではなく、はっきりとした明るさをもたらす光を感知するのです。
ドイツ兵の処刑を執行したアメリカ兵は『もろびとこぞりて』を聞いたとき、忘れかけていた明るさを感じたのです。心を照らし、魂を照らす光に打たれるようにして、戦争の愚かさにはっとさせられ、人としての心を取り戻しはじめたといってよいでしょう。
戦争という多くのいのちを奪い、人間としての心が麻痺してしまう異常な状況下においても、クリスマスをうたう讃美歌の言葉が力を発揮し、人々を照らすまことの光のための僕となり道具となります。私たちのうたう讃美歌には、それほどの可能性が秘められていることを覚えたいと思います。
今もウクライナとロシアの戦争、イスラエルとハマスの争いが続いています。すべての人を照らすために来てくださったまことの光が、これらの戦争、争いのなかにあるすべての人に届くことを祈りながら、私たちも『もろびとこぞりて』を歌おうではありませんか。
1 もろびとこぞりて 迎まつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり
2 悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜(とりこ)を放つと 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり
3 この世の闇路を 照らしたもう
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり
参考文献 児島 襄著 第二次世界大戦 第12巻(1984年小学館)