ルカの福音書第2章1~12節「クリスマスに与えられたしるし」

2024年12月22日 クリスマス礼拝説教

 ベツレヘムの馬小屋から赤ん坊の産声が聞こえてきたとき、野原では羊飼いたちが野宿をしながら羊の番をしていました。そこに天使が現れ、神さまから託されていた報せを羊飼いたちに伝えました。その報せこそはクリスマスのメッセージそのものといえるものでした。

 恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。(10~12節)

 天使がメッセージの終わりの方で「それが、あなたがたのためのしるしです」と語っていましたそのしるしとは、何のためのものでしょう?
 ベツレヘムというさほど大きくはない町であっても、それなりの人数の赤ん坊がいたので、救い主として生まれた赤ん坊とほかの赤ん坊との見分けがつくように、あるいは救い主のお生まれになった場所を知る手掛かりとして「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」が目印だと、天使はそういう意味で言ったのでしょうか? 
 その意味は確かにあったでしょう。実際に羊飼いたちは、天使から聞いたそのしるしを目当てにして馬小屋でお生まれになったキリストを探し当てたのですから。
 その場合、しるしというのは厳密には飼葉桶のことを指しています。救い主としてお生まれになった赤ん坊は、他の赤ん坊には見られない装いをしていました。つまり、産着ではなくて「布にくるまれ」、布団ではなくて「飼葉桶」の藁に寝せられていました。だからそれが目印となったのです。
※布にくるむことについては、新生児の体をまっすぐ保つため一般的に行われていたという説明もあります。

 さて、私たちは今、羊飼いたちの聞いた天使のメッセージを、私たちのクリスマス礼拝に与えられた〈神のことば・みことば〉として聞いています。
 野原で野宿をしていたあの羊飼いたちとは違って、私たちは救い主が馬小屋でお生まれになったことを既に知っています。そしてお生まれになった幼子が布にくるまれ飼葉桶に寝せられていたこともよく知っています。
 そのような私たちに、クリスマスのみことばが「それが、あなたがたのためのしるしです」と語りかけてくるとき、そのしるしとは、もはや布と飼葉桶ではなく、それとは別のものを指しているといえます。

 では、このクリスマス礼拝に集められている私たちに与えられているしるしとは何か。それは、救い主としてお生まれになった幼子そのもの、つまりキリストそのものが私たちに与えられたしるしです。では、イエスさまは、私たちにとって何のためのしるしなのか。それを要約するならば、こう申しあげることができます。

クリスマスにお生まれになったキリストは、
神さまがこの世界を決してお見捨てになることがないということのしるしです。
神の御子キリストがこの世に生まれてくださったということは、
この世に対する神の愛を証明するしるしです。
そして、キリストがお語りになったこと、なさったことの全てが、
すべての人に対する神の愛を証明するしるしです。

 このしるしそのものであるイエスさまから目を離さないようにすることが、神の愛を見失わないために極めて重要なこととなります。逆の言い方をすると、イエスさまというしるしから目をそらしてしまうと、私たちは神の愛を見失い、神の愛を誤解する危険に晒されてしまいます。
 イエスさまというしるしに心を向けることが疎かになると――神さまはもう私を愛してくださってはいないのではないか、私が不幸にあうのは、神さまからの天罰ではないか……というようなことを考えかねないのです。

 例えば、一年を振り返りながら――この一年、健康が守られた。病気になったけれども回復が与えられた。仕事が守られた。新しい家を建てることができた、等々。こうしたことに――神さまが愛してくださり、守ってくださったからだ……と、それを感謝することは良いことであり幸いなことです。しかし、健康や仕事が守られる、物事がうまく順調に進むということは、神の愛を証明するしるしの役目を果たすことはできないし、そういうものをしるしにしてしまうと、かえって神の愛を見失いかねないのです。それは次のようなことが起こるからです。

 今年、年明け早々に大きな地震があり、また同じ地域に追い打ちをかけるように自然災害が重なりました。多くの命が失われ、住まいや仕事が失われました。日常生活そのものが失われたのです。こうしたことは私たちにも起こり得ることです。その時に備えての覚悟が必要です。
 そういうことが実際に起こったとき、私たちに対する神の愛は無になってしまったのでしょうか。神の愛によるものだと思っていたことは勘違いだったのでしょうか。だから、こんな不幸なことになってしまった……ということになるのでしょうか。それは違う。そうしたときにこそ、クリスマスのみことばが告げている、私たちに与えられているしるしを思い起こす。そして、はっきりと自分自身に言い聞かせるのです。
――辛く悲惨な出来事があっても、私たちは神さまに見捨てられたわけではない。神さまの愛は変わってはいない。イエスさまがこの世にお生まれくださった以上、それは間違いのない確かなことなのだ、と。

 クリスマスにお生まれになった幼子は、やがて大人になると弟子たちを伴って伝道の旅をなさいました。そこでなさった奇跡的なみわざのひとつひとつが、神の愛を示すしるしとなりました。

 キリストは、おおぜいの病に苦しむ者をお癒しになりました。病を癒すみわざは、神さまが病める者を慈しみ、神さまに顧みられない病はないことを証明するしるしとなりました。

 キリストは、ふしだらな堕落した生活に身を落としていたために人々から蔑まれていた遊女や取税人の友なり、また罪人と一緒に食事をなさいました。そうしたキリストのふるまいは、過ちを犯し、罪の誘惑に弱い人間に対する神さまの深い憐みをあらわすしるしとなりました。

 そして決定的な神の愛を示すしるしとなったのは、キリストが十字架にかかられたことによってでした。これはもはやしるしではなく、神の愛そのものと言うべきでしょう。その十字架上でキリストはご自分を磔にした者のためにこうとりなし祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(第23章34節)

 かつてキリストと弟子たちとの間にこんな問答がありました。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。
「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」(マタイの福音書第18章21~22節)

 七の七十倍赦すとは、490回まで赦すという意味ではなく無限に赦すということです。キリストがこれほどの赦しを弟子たちに教えたのは、神さまから与えられている赦しが無限のものだからです。
 キリストが十字架上でとりなし祈られた「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」とは無限の赦しによるとりなしであったといえます。 
 このようなとりなしを十字架上でなさったキリストから目をそらしてしまうと、神の赦しが無限であることを見失ってしまいます。そして神の赦しは、対象者においても期間においても有限であるかのように考えてしまうのです。そして救い主が実現してくださる救いを驚くばかりの恵みとはいえないもの――人が誰かを赦すときのその赦しとたいして変わらないもの――にしてしまいます。
 そうなってしまわないように聖書は、十字架にかかるためにクリスマスにお生まれになり、事実、十字架におかかりになられた受難のキリストを指しながら、私たちに告げているのです。
「それが、あなたがたのためのしるしです!」


 クリスマスにお生まれくださったキリストそのものがしるしとなって示してくれているもう一つの救いについても心に留めましょう。そのためにパウロの言葉をお聞きします。

 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます……被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。 (ローマ人への手紙 第8章19~22節)

 「被造物」とは、神さまによって造られたものを指す呼び名です。人間も含めた動物や植物などすべての命あるもの。その命あるものが生まれ、生き、そして死を迎える場となる大地、海、空。更にその外側にある宇宙、太陽や月、星も神さまによってつくられた被造物です。

 ですから、私たちが生きているこの世界のことを聖書は二通りの呼び方をしていることになります。ひとつは「世」であり、もうひとつは「被造物」です。
 「世」という呼び方は、どちらかというと、神に逆らう〈悪しき世〉としてのとらえ方が込められていることが多く、例えば次のように用いられています。

 すべての人を照らすそのまことの光(キリスト)が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネの福音書第1章9~10節)

 ですから、世界をと呼ぶとき、世界は闇であり罪に満ちているゆえに、滅びに定められてもいたしかたがないものというとらえ方さえなされます。

 一方、世界を被造物と呼ぶとき、それは神さまがお造りになり、それゆえに神さまは被造物全体の救いをも御心としておられるという〈神による救いの対象〉としての世界というとらえ方になります。

 戦争を繰り返すこの世界、その戦争によって命を奪われてしまった大勢の人々。また、世界に繰り返し起る台風や大地震などによる災害、その災害によって命を失い、厳しい生活を強いられている人々。それら全体が神によってつくられた被造物です。
 その被造物全体が、私たちと同じように神による救いを必要とする存在なのです。その被造物全体を救い、すなわち世界を新しくするためにもキリストはこの世にお生まれくださったことを覚えることも、クリスマスに与えられたしるしを受けとめることに属します。

 クリスマスのしるしを受けとめ、キリストをこのに送ってくださった神を信じる信仰者は、世界に対して諦めたりはしません。そして、この世界で起こっている戦争や自然災害による悲しく悲惨な出来事を〈神に逆らう世の罪による救いようのないもの〉という捉え方はしません。
 そうではなくて、悲惨な出来事そのものと、そこから聞こえてくる嘆き悲しみの声と流された涙を〈滅びの束縛から解放される救いを求める被造物うめき〉として捉えます。そして、そのうめきは神によって聞き受け入れられ、被造物全体に救いが与えられることを信じて祈ります。
 そのようにする根拠ははっきりしています。それはキリストがにお生まれくださったからです。クリスマスに与えられたしるしは、神によって造られた被造物全体である世の救いを指し示す希望でもあるのです。