種を蒔く人のたとえ「福音としての神の国とその希望」

マルコの福音書 第4章1~20節

 キリストのお語りになりました『種を蒔く人のたとえ』は、四つの場所に落ちた種の様子をありありと私たちの心に描き出してくれます。そして、道端に落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、茨の中に落ちた種がまったく実を結べなかったのとは対照的に、良い地に落ちた種が実を結び、三十倍、六十倍、百倍になったという明暗のはっきりした結果を物語ります。良い地に落ちた種の実りのことが「三十倍、六十倍、百倍」と大きく大きく語られているのは、このたとえによるメッセージの中心が「希望」であるからです。

 几帳面な日本の種蒔きを思い浮かべるとき、このたとえの種蒔きは無駄の多い蒔き方をしているように映ります。そのために道端や岩地、茨の中に落ちた種は案の定、結実には至らず、良い地に落ちた種だけが、本来の畑地に正しく蒔かれたことによって大きな実りを結ぶことができたというふうに見えます。
 もしそのようにこの種蒔きを見るならば、このたとえの意味は、残念な結果とならないようにするための、そして喜ばしい成功を得るための「教訓」を示すものになるでしょう。しかし、そうではなく、あくまでもキリストがたとえを通して私たちに語りかけてくださっていることの中心は「希望」なのです。

 キリストはこのたとえを、もしかするとガリラヤの田園風景のなかで、実際に種蒔きをしている農夫の様子をごらんになりながらお語りになっていたかもしれません。その際に、蒔かれた種が畑地だけでなく、道端や岩地、茨の中に落ちる様子も見えていたかもしれません。そんな想像が成り立つほどに、キリストが物語っておられる種蒔きは、中東地域で普通に行われている種蒔きの様子そのものでした。
 その農法は、うねを耕し整えてから種を蒔くというのではなく、原っぱに種を蒔き散らしてから畑地を整えるというものです。蒔き方にしても、種をつめた袋に穴をあけ、その袋を負った家畜を歩かせて種を蒔き散らすといった方法もあったようです。
 ですから、種が道端や岩地、茨に落ちるということはごく普通にあることであり、そのことに良いも悪いもなく、成功と失敗という見方もありません。種蒔きをすれば実を結ぶことのない種がそれなりに生じるなかで、しかし、良い地に落ちた種はかならず大きな収穫をもたらす。それは確かなことであり期待してよいことでした。その期待の結果を「三十倍、六十倍、百倍」と強調して語りながら、キリストは確かな希望を示しておられるのです。
 その希望とは、ただひとつのことに集中します。すなわち「神の国」による希望です。それゆえにキリストは、こうお語りになっているのです。

「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。」(11節)

 私たちが生きている大地。そして海と空、その外側にある宇宙。人間をはじめとするすべての生きとし生けるもの。これらは神さまの天地創造によるものです。その創造された天地を神さまはご支配なさり、その支配の及ぶところはあまねく神の国となります。「神の国」というギリシャ語原文は「神の支配」を意味するものであり、「神の国」という言葉には、神さまを信じる者たちの世界についてのとらえ方、見方があらわされています。私たちが生きているこの世界も神の国であり、この世界を神さまが支配しておられるという見方です。ですから、この世の世界には救いがないといって、別の世に救いを見出そうとするユートピアは神の国とは関係ありません。

 神の国は、キリストがこの世に来られたことにより新たなステージ、段階を迎えます。この世界において、神さまによる恵みのご支配が始まったことをキリストは「時が満ち、神の国が近づいた」と告げられました。そして「悔い改めて福音を信じなさい」(第1章15節)と伝道をお進めになりました。またキリストは『種を蒔く人のたとえ』も含めて幾つものたとえをお語りになりましたが、その多くは神の国を示すためのものでした。
 実にキリストが伝道された福音の中心は神の国であり、神の国は福音そのものであったといえます。その神の国の「奥義」をキリストは『種を蒔く人のたとえ』に込めてお語りになったのでした。そして、神の国の奥義の中心にあるものこそは、神の国による希望なのです。その希望のメッセージを要約するならば、こう申しあげることができます。
 ――何事にも失望しないように。神のご支配、神の国は今も前進しています。そして、その支配がもたらす収穫は期待を超えて大きい。だから諦めないで生き、励みなさい!

 このような希望をキリストがお示しになったのには事情がありました。キリストと弟子たちによって進められていた伝道にあるときから暗雲がたちこめてきていました。キリストは神の国についてお語りになりながら、重い病や不自由な身体のために苦しむ人を癒されました。そこでなされる奇跡的な癒しは神のご支配が現実のものであることを証明し、神の国を示すしるしとなりました。しかし、そうした伝道は期待するような結果とは逆の事態を引き起こしてもいたのです。
 律法学者は、キリストがなさった癒しのみわざを悪霊の力によるものだと糾弾しました。キリストに敵意を募らせていたパリサイ人は、恥ともせずに犬猿の仲であるヘロデ党の人々と手を結んでキリストを殺す相談を始めました。また身内である母マリアや兄弟たちすらもキリストの言動に懸念を示す有様でした。
 こうしてキリストの伝道していた神の国は大きな抵抗にあっていたのです。その様子を目にしていた弟子たちは不安を深めてもいたことでしょう。そのような状況を受けとめるなかでキリストは『種を蒔く人のたとえ』を語り、神の国の希望を示されたのでした。

 神の国が抵抗にあうということは過去の話ではありません。今日においても、同じことが起こります。キリストの伝道を引き継いでいる教会は、今さまざまな困難を抱えています。国内にある多くの教会が、牧師や奉仕者の不足、財政の減少といった問題のなかにあります。そのために兼牧の教会が増え続け、合併や閉鎖により教会がなくなる事態も生じています。
 欧米ではクリスチャンの教会離れに歯止めがかからず、空っぽになる教会堂が後を絶ちません。フランスのある歴史人口学の学者は、ヨーロッパではキリスト教会の社会に対する影響力が急激に衰え、信徒たちはかろうじて保っていたキリスト教的文化による価値判断すらも放棄してしまっているという分析をしています。神の国を証しする教会の現状はまことに厳しく、神の国についての信仰も危機に瀕しているといわなければならないほどです。
 こうした教会をめぐる厳しさは初代教会の時代においても既に起こっていました。ですから、たとえに語られている四つの場所に落ちた種のそれぞれについて、みことばの受けとめ方とその結果という意味づけを福音書は記すに至りました。こうして『種を蒔く人のたとえ』は希望のメッセージと共に、みことばの聞き方と受けとめ方についての自戒を促し、自己吟味を問うメッセージをもつようにもなりました。そうせずにはおれないほどに、神の国を証しする教会は、さまざまな抵抗、誘惑、試練との戦いに晒されてきたのです。

 今申しあげました教会の厳しさ以上に心を向けなければならない神のご支配、神の国そのものの受けとめにかかわる大きな課題があります。それは、この世に向けて宣教すべき福音の理解をめぐっての危機ともいえるものです。
 2011年、東日本大震災が起こり、また福島では原発事故が起こりました。その後も、大きな地震や豪雨などによる災害が続きました。そしてウクライナとロシアとの間に戦争が、またイスラエルとハマスとの間に戦いが始まりました。これらによる犠牲者はこれまで私たちが経験したことのない大きなものとなりました。実に大勢のいのちが失われ、奪われて今に至っています。こうした現実を前に――神がおられるのなら、なぜ……という神のご支配、神の国をめぐっての戸惑いや困惑が、さらには疑義が生じてきます。
 このような状況のなかで教会は、多くの人が流した悲しみの涙を忘れることなく、悲嘆のなかにある人たちの慰めと、懸命に立ちあがろうとしている人たちの励ましのために福音を託されています。その使命を教会に生きている私たちは『3.11』以来、感じとってきたのではないでしょうか。しかし、その宣教は力強いものになっているとは言い難いように思われます。

 その原因のひとつに、神の国による福音を受けとめることについての未熟さが私たちにあるのでは、ということを思わせられます。キリストが神の国の奥義を込めてお語りになった『種を蒔く人のたとえ』を私たちはこれまでに何度も聞いてきていますが、どれだけ神の国を意識し、たとえに込められている神の国に対するキリストの思いを受けとめてきたでしょうか。ことによると、神の国のことは脇に置いて、たとえの意味だけを理解して、このたとえのメッセージを聞きとったつもりになってしまってはいなかったか。そうした未熟さが神の国による福音を聞きとる弱さとなり、それゆえに『3.11』のような事態を前にすると福音を力強く語ることについて足踏みをしてしまう、そのように思えてなりません。これは私自身の反省でもあります。
 また、こうも言えるのです。神の国をめぐる受けとめ方の未熟さは、現代の私たちに始まったことではありません。キリスト教会の歴史をたどるならば、神の国の理解がいかに揺れ動いてきたかを知ることになります。道徳的行為の目標としての神の国。神の国は人間の努力によって獲得しうるもの。神の国は個人の心に到来する内面的なものといった理解や受けとめがなされてきました。また、熱狂的な人たちの過激な運動を行う口実として神の国が語られることもありました。
 そうした神の国の受けとめ方の未熟さ、あるいは誤解に陥らないために私たちが殊更に意識すべきことは、神さまによる恵みのご支配を実現し、神の国を完成させるためにこの世に来てくださったキリストに心を集中して向けることです。このキリストについてヨハネの福音書は「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(第3章17節)と証言しています。まさにそのような御子キリストが『種を蒔く人のたとえ』をお語りになっているのです。そしてキリストは、良い地に落ちた種が大きな収穫をもたらして三十倍、六十倍、百倍になった様子を私たちの心に映し出しながら仰せになるのです。
 ――これこそが神の国です。神の国の希望です。この希望を指し示すみことば聞く耳のある者は聞きなさい。そして悲しみのなかにある人の慰め手となりなさい。あなたがたは祝福の担い手なのだから。

 神の国がもたらす「三十倍、六十倍、百倍」の収穫の実体については、旧新約聖書にいくつものビジョン、幻が記されています。その中から、大地震や津波、原発事故、戦争といった悲惨が繰り返されるこの世の只中でこそ聞くにふさわしいみことばを聞きたく思います。神さまのご支配がこの世に満ちて、神の国が完成するときに実現する実りを語るみことばとしてイザヤ書にある預言者の言葉に耳を傾けましょう。

まことに、戦場で履いたすべての履物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、
子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、
獅子も牛のように藁を食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。
主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
先のことは思い出されず、心に上ることもない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。
(イザヤ書第9章5節、第11章6~9節、第65章17節、20節) 
 
 先日、那須高原にあります藤城清治美術館に行ったときのことです。初めて訪れる美術館で最も印象深く観ましたのは、東日本大震災と原発事故の被災地を描いた作品でした。そのなかの一つの作品に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という宮沢賢治の言葉が刻まれているのを見たとき心を大きく動かされました。この言葉と神の国による希望を語るみことばが共鳴するのを感じたからです。

 私たちの伝道は、ひとりひとりの個人に向けられ、個人の救いを願って行われてきました。そのことに間違いはありません。ひとりひとりが、さまざまなことをきっかけに教会に導かれ、十字架にかかられたキリストの受難による罪の赦しを信じ、キリストを与えてくださった神さまを「天の父」と呼ぶことを喜びとする者とされる。これは、ひとりひとりが信仰によって受ける祝福です。そうして「神が私たちとともにおられる」というインマヌエルの祝福を携えて、悲嘆の淵にある人を慰める祝福の担い手とされます。このことのために、個人に向けての伝道は欠くことができません。
 それと共に忘れてならない重要なことは、個人の救いの前提としてこの世の救いがあるということです。神の国による福音は「世」全体の救いを視野に入れています。イザヤ書のみことばは、人間どうしのいのちを奪う戦争がなくなることはもちろん、人間と動物との間においてすらも実現する平和のビジョンをあらわしています。多くの人のいのちを失わせた大地震や津波、豪雨をもたらす大地や海さえも造りかえられ、人と自然との調和をもたらす新天新地のビジョンも神の国がこの世界に完成するときに実現するのです。
 そして「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」と語られているように、神によって造られたものすべてが、主なる神さまを知るときが実現します。そこに至るまでには、神さまによる、正義が貫かれるためのさばきも行われることでしょう。神さまのさばきを経ればこそ、すべての者が正しく主なる神さまを知ることになるのです。そして、神さまを知ることになれば、そこに起こるのは当然のこととして讃美です。すべての被造物、万物が主なる神さまを讃美する存在とされる。そのような大いなる希望が、たとえに語られている「三十倍、六十倍、百倍」という言葉に込められているのです。


 (2025年2月2日 主日礼拝説教)