受難節の礼拝説教
キリストがゲツセマネと呼ばれる場所で一夜を過ごされた出来事については『ゲツセマネの祈り』と呼ぶことが多いのですが、そこで起こっていた出来事に即して言うならば『ゲツセマネの戦い』と呼ぶべきかもしれません。この夜、キリストは、まさに救い主(キリスト)であるがゆえの戦いを、しかも、後にも先にも例を見ないほどの激しい戦いを祈りによって行っていたからです。
その戦いが始まった時のキリストについて聖書は、「イエスは悲しみもだえ始められた」と記しています。また、その場にいた弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とご自身の苦しみを明かしておられるキリストの言葉をも記しています。
これほどの苦しみを負いながらの戦いをキリストがしている間、三人の弟子たちは眠っていました。キリストから「ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われていたのにもかかわらず、三度までも眠りに落ちてしまいました。
夜のゲツセマネで、苦しみの言葉を吐きながら戦っておられたキリストの戦いはいかなる戦いであったのでしょうか。そして、キリストが激しく戦っておられるその場で眠りに落ちてしまっていた弟子たちの眠りは何によるものだったのでしょうか。
ゲツセマネでのキリストは、哲学者ソクラテスの最後と比較されることがあります。キリストは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、ご自分に差し迫っている死を「杯」と呼び、それを受けることについてためらわれたのに対して、ソクラテスは差し出された死の毒杯を、明るく落ち着いた微笑みをもって受け取ったと伝えられているからです。このような比較に意味があるとすれば、それは、これほどに死を恐れた人間はいなかったと言ってよいほどにキリストが死を恐れていた、その事実を軽視することなく、注視させるということです。
キリストは間もなく、ユダの裏切りによってご自分が捕らえられることを知っていました。そして、ご自分がどのように殺されるのかも知っていました。そして何よりも、ご自分が死ななければならない、その理由を知っておられました。それゆえに、悲しみもだえながらその死を恐れたのです。その死がどのようなものであるかについては、使徒パウロの「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙第6章23節)という言葉が答えになります。
キリストが恐れた死とは、単にいのちを失う、いのちを絶たれることによる死というのではありません。病死、事故死、殺人、刑死などによる死とはまったく別の死のことが考えられています。それは神さまとの関係が断たれた状態における死のことです。
神さまとの関係とは愛の関係と言えるものです。神さまは、いかなることがあっても私をお見捨てになることはなく、私を覚えていて、私を見守っていてくださる。そのような関係を神さまは、私という存在が生まれる前から、また、私という存在が死んでなくなっても持ち続けてくださいます。
永遠なる神さまが愛の関係をもって私とつながっていてくださることによって、私という存在は消えてしまうことなく生き続けるのです。そのような神さまとの関係が断たれた状態における死である罪の報酬としての死がいかに耐え難いものであるか。そして、この比類なき苦しみをうけることが全被造物の救済のために、救い主としての自分に定められた天の父のみこころであることをキリストは知っておられました。しかし、その死についてキリストは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのでした。ここに、ゲツセマネの戦いの厳しさが頂点に達していることを見ます。そして、ここに戦いの相手である敵を見るのです。
キリストは「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」(ヨハネの福音書第4章34節)と語られたことがありました。そのキリストが、天の父のみこころとは別のことを願うに至ったという事実から、夜のゲツセマネにおいてキリストに接近していた試みる者の存在を認めずにはおれません。この試みる者のことをマタイの福音書は「悪魔」と呼び、荒野で断食をしていたキリストが悪魔の試みを受け、それを退けたことを第4章に記しています。この試みる者による攻撃に対してキリストは、ご自分の望みではなく天の父の望みがなされるようにと祈り続けることで撃退し、そしてこう祈ることで勝利されたのです。
しかし、わが父よ。
わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(42節)
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さて、次に弟子たちに注目を移しましょう。この三人の弟子たちのことでよくよく考えてみなければならないことは、なぜ三人は眠ってしまったのかということです。
この時、同行をゆるされた三人の弟子たちは、キリストから期待されて呼び出されたことを感じていたことでしょう。そして、実際にキリストは三人に期待をしておられたからこそ「ここにいて、私と一緒に目を覚ましていなさい」と願われたのでした。しかし、弟子たちは眠りに落ちてしまいます。そして「あなたがたはこのように1時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか」と、キリストにとっては悲しい、弟子たちにとっては恥ずべき場面が三回繰り返されます。これほどまでに弟子たちを眠らせてしまっていたものは何であったのか、それは弟子たちがこれまでに体験したことのない深刻な恐れと絶望からの逃避であったといえます。
ここに至るしばらく前に弟子たちは、キリストから「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と死の予告を聞き、更には最後の晩餐の席上で「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と仲間内から裏切り者があらわれるという予告を聞いていました。そして、絶大な信頼を寄せていた師が悲しみもだえ始め、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と苦しみを口にされるのを聞くに及んで、三人は得体のしれない危険が迫っているのを感じ取っていたに違いありません。そして、ぞっとするような空気の変化による恐怖が三人の心を襲っていたのです。
キリストと共に伝道の旅をするなかで弟子たちは、キリストのお語りになるみことばを聞き、病者に対する癒しのみわざを目の当たりにしながら、恵み深い神さまが確かにおられるという、神の近さを感じてはそれを喜びとしてきました。しかし、神の近さを感じさせてくれる空気が、ゲツセマネにおいては神の遠さにすっかり変ってしまった。その変化に弟子たちは唖然としていたのです。
試みる者がキリストを攻撃する時となったゲツセマネの夜は、弟子たちにとっても脅威となっていました。私と一緒に目を覚ましていてほしい、そして祈っていてほしい、というキリストの願いを挫くために悪魔が用いた弟子たちへの攻撃手段は、手荒なことをするのではなくて、弟子たちを眠りに陥らせることでした。この方法は人間の特性を利用した巧妙なものでありました。
人間はどうしようもない厳しい事態、絶望的な状況を前にした時、眠りに逃げ込むことで自分を守ろうとする特性があります。そのときの眠りは単なる疲労から来るものではなく、休養のための眠りというのでもありません。物事を感じ取って思考する機能を停止させ、感覚を麻痺させて、現実から逃避するための眠りです。現実逃避といっても、それは悪い意味ではなく、耐えられない苦痛から自己を守る本能的なものです。
こうした事情によって弟子たちが眠りに落ちてしまっていたことをキリストは分かっておられましたから、弟子たちを思いやりながらこう言われたのでした。「霊は燃えていても、肉は弱いのです」
この言葉には、一緒に祈って戦ってくれることを期待した弟子たちの不甲斐なさに対する不満や非難はありません。ただ、弟子たちの弱さをいたわる優しさがその声には響いていたといえましょう。そして、一人で戦い抜くという決然としたキリストの思いが込められていたとも言えます。
霊は燃えていても肉は弱いとは、実行しようという気持ちはあっても体がついてこない、といったような単純な話しではありません。目覚めていなければならないところで、眠っている人のように感覚が鈍り、麻痺してしまうという人間の弱さのことをキリストはおっしゃったのだろうと思います。
最近、総理大臣が国会議員との会食後に、おみやげとして10万円の商品券を配ったということが国会で取りあげられ問題になっています。法的な問題もさることながら、そのことよりも、これほど世間において賃金や税金のことで不安や不満を募らせている人が多くいるであろうこの時期に、今そんなことをなぜしてしまったのか……と、クリスチャンである総理大臣の行為に批判というよりは残念な思いを抱いてしまいます。なぜ、こんなつまらない失態を起こしてしまうのか。それは目覚めていなかったら、そのために感覚が鈍ってしまっていたのでは……。総理大臣の椅子は、人間の感覚を麻痺させる何かがあるのだろうかと思わせるほどです。
そして、こういう他人の失態をあえて例にあげながら申しあげたいことは、同じことを私たちは、さんざんしてきたということです。庶民の感覚がまるで分っていないと、政治家の感覚が疑われることが多々あるように、教会も感覚が疑われるようなことをしてきた。その痕跡を教会の歴史に認めないわけにはいきません。目覚めていなかったために、模範として従うべきキリストの姿が見えなくなり、人としての心が麻痺して、キリストが願われることとはあべこべのことをしてきたのです。ですから、キリストが弟子たちについて語られた「霊は燃えていても、肉は弱いのです」ということは他人ごとではありません。
ただし、ゲツセマネでの弟子たちと今日の私たちとでは状況に大きな違いもあるのです。その違いを知ることが失態に陥らないための第一歩となります。それは、私たちには目覚めを与えてくださる聖霊の助けを期待し、それを求めることができるということです。
あの夜、ゲツセマネには、神は遠くに退かれてしまったと思わせてしまう、絶望を誘う暗く重い空気が立ち込めていました。しかし今や、そのような空気を追い払う風が、キリストと戦いを共にする者たちのために吹きます。この風としての聖霊を全身で受けとめることが「霊は燃えていても、肉は弱いのです」とキリストが語られた私たちの弱さを乗り越えさせます。聖霊によって私たちは祈りへと押し出されて行くことで目覚めが与えられる。そのことを忘れてしまわないようにしたいと思います。そして、自らの精神力や感覚を過信することなく、むしろその弱さをわきまえて、聖霊の助けと導きを祈り求めることができるようにしたいと思います。
(2025年3月23日 受難節第3主日礼拝)