みことばの戸が開くと 光が射し 浅はかな者に悟りを与えます。
(詩篇第119篇130節)
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、
わたしがあなたがたに話したすべてのことを想い起させてくださいます。
(ヨハネの福音書第14章26節)
聖書をとおして、イエスさまの語りかけを聴くこと、
聖書をとおして、イエスさまのみ声を聴くこと、
すなわち、神の言葉・みことばを聴くことは、神さまからの賜物です。
聖書に書かれてあることをよくわかろうとするとき、(牧師であれば、特に説教の準備をするとき)聖書の注解書や神学の書物を読み、それらの助けを得ながら聖書の理解に努めます。そのようにして〈聖書を理解する〉ことと〈神の言葉を聴くこと〉とは、重なる部分もありますが違いがあります。
何が違うかと言えば、神の言葉を聴くことは努力によって自由にそれを得ることができるわけではないことです。牧師は、神の言葉として聴かれる説教を語るわけですが、そのためには、牧師自身がまず神の言葉を聴かなければなりません。そのために、聖書研究や神学の学びをしながら聖書に集中し、出来うる限りの努力をするのですが、その努力によって必ず神の言葉を聴きとることができる、神の言葉を獲得することができるというのではありません。神の言葉を聴くということは、やはり最終的には、神さまから与えられるものとしかいいようがないのです。
「神の言葉を聴く」と言いましても、神さまの声を音声として聴覚でとらえるわけではありません。聖書を読んでいるときに、あるいは聖書をもとに語られる説教を聞いているときに――これは神さまが私に語ってくださっていることでは……と心をとらえられる言葉との出合いが与えられることがあります。そのような体験を「神の言葉を聴く」と言いあらわし、詩篇は「みことばの戸が開くと、光が差し」と言いあらわしているのです。
この詩篇が表現しています神の言葉・みことばを聴くイメージをふくらませるとこんなふうになるかもしれません。
固く閉じられた戸があります。その戸が突然、開きました。
その戸は、私が手を伸ばして力づくで開けたのではありません。
私が、なにがしかの努力をした結果、戸が開いたというのではありません。
戸のほうから開いたのです。戸のむこう側から誰かが戸を開けたかのように。
その開かれた戸から光が射してきます。その光に私は照らし出されます。
神の言葉を聴くということは、開かれた戸から差し込んでくる光を感じ、光に包まれ、また光に打たれる体験といえるでしょう。そのようにしてみことばを聴くとき、浅はかな者に悟りが与えられます。
このようなみことばを聴く体験は、私たちの精神の作用によるもの、心理的な現象というのではありません。神に対する絶対依存の感情が、神の言葉を信者の心につくりだすというようなことではない。そうではなくて、聖霊のお働きによるものです。その聖霊について、キリストは弟子たちにこうお語りになったことがありました。
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを想い起させてくださいます。
弟子たちは、キリストと伝道の生活をつづけるなかで、キリストから直接いろいろな言葉を聞いてきました。その言葉を弟子たちは、素晴らしい言葉だと感心しながら聞いたことでしょう。しかし、この時の弟子たちにとってキリストの言葉は、所詮、素晴らしい言葉、美しい言葉にすぎませんでした。キリストの言葉の持つ真の意味を理解し受けとめることができない浅はかさが弟子たちにはありました。そのような弟子たちのことでキリストは「目があっても見えないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」(マルコの福音書第8章18節)と嘆かずにはおれなかったほどです。
そういう弟子たちに聖霊が遣わされて来たとき、聖霊の助けによって、キリストがお話しになったすべてのことを教え、すべてを想い起させてくださる。そうキリストは約束なさいました。
ここで注意深く聞きとりたいことがあります。それは、遣わされてくる聖霊は、今まで聴いたことのない全く新しい話しを聴かせるというのではなくて、これまでに既に聞いてきたキリストの話しのすべてについてそれを教え、それを想い起させてくださるということです。
この聖霊についての約束は、この時の弟子たちだけのものではなくて、今日の教会についても当てはまる約束です。私たちの場合で言えば、聖霊によってすべてのことを教え、すべてを想い起させてくださる内容は、聖書に記されているキリストの言葉はもとより、聖書全体の言葉に及びます。
このようなことを記していますヨハネの福音書第14章23節以下のテキストは、教会歴による聖書日課では聖霊降臨主日のテキストとされてきました。聖霊降臨主日の礼拝で語る説教を準備する牧師のためにディートリヒ・ボンフェッファーによって書かれた説教黙想が残されいます。その黙想には、先ほどのヨハネの福音書のテキストについて、こんなことが書かれています。
「使徒の働き」では、最初の、ただ一度起った聖霊降臨の出来事について語っているが「ヨハネの福音書」では、現在の、たえず(繰り返し)起る聖霊降臨について、あらゆる時代に、教会に起こる聖霊降臨について語られている。
(新教出版「ボンフェッファー説教全集3」より)
聖書の言葉についてすべてのことを教え、すべてのことを想い起させる聖霊降臨は、今も、私たちの礼拝に起る祝福です。それによって神さまは、みことばの戸を開いてくださるのです。
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さて、みことばの戸が開かれ、みことばの放つ光りを受けるとき、浅はかな者である私たちに悟りが与えられます。この「悟り」と、現在もたえず繰り返し起る聖霊降臨によって与えられる「聖書についてすべてのことを教えられ、想い起させられる」こととは一つのこと、同じことです。ならば、そのような意味での悟りとはどういうことなのか。そこで何が起こるのか。そのことを少し具体的に捉える試みをしてみたいと思います。
40歳代の頃、作家の大江健三郎さん(1994年ノーベル文学賞を受賞、2023年死去)の書いた小説とそれ以外の論評や文学論について書かれたものを読みながら、私なりに言葉をめぐっていろいろなことを学ばせてもらいました。その言葉の師である大江さんがある大学で行われたシンポジウムで語られていた話しを今でもよく思い出します。その話しは、私にとって説教準備をする際に祈りを呼び起こすものになっているからです。
そのシンポジウムでは、ノーベル科学賞、物理学賞を受けた二人の科学者とノーベル文学賞を受けた大江健三郎さんがそれぞれの講演をした後に、三人によるパネルディスカッションが行われました。そこで大江さんはこんなことをお話になりました。(以下は私が聞き取ったものの要約です)
科学者は、分からないことに取り組んでそれをわかるようにして行こうとする。それに対し、文学者・小説家は、分からないことではなくて分かっていることに取り組む。たとえば、人が誰かを愛するということは分かっていることである。それを小説に書く。それを読んだ人が――ああ、人間は、こんなにも不思議なものなんだなあ……と思ったりすることが起こる。そのように、わかっていることを、わかっていなかったことのような新鮮さで認識させることが文学の仕事なのである。それを「異化」という。
以上のことに関連して、大江さんは自著『新しい文学のために』(岩波書店)のなかで次のようなことを記してもいます。(これも私の要約で紹介します)
「異化」と正反対のこととして「自動化」がある。これは、あるひとつの言葉なり文章表現について、それを長い間繰り返し聞き続けてきたことにより、その受けとめ方が習慣的、反射的な反応になることを指している。その結果、そこで読まれ、聞かれた言葉は、ぼんやりと知覚されるだけで、言葉について思考する心の動きは起こらず、記憶に留められることもない。したがって最初から読まれもしなければ、聞かれもしなかったと同じといってよいほどの結果になる。こうした自動化は無意識のうちに常態化する。異化とは、自動化されてしまっているもの、それゆえに認識されないままに流されてしまっているものを認識させ、明視させる手法である。
文学の領域で課題とされていることは、言葉を媒介にする以上、聖書の言葉の受けとめ方にも同じことが言えるでしょう。つまりこういうことです。
神さまは私たちを愛してくださるお方、罪を赦してくださるお方、私たちと共にいてくださるお方、等々、こうしたことは、クリスチャンにとってわかっていることです。それを初めて知ったとき、心動かせられる驚きと喜びがありました。それは、科学者がこれまでわからなかった原理を発見したときの驚きと喜びに似るものであったかもしれません。
しかし後に、これは人の認知とか認識、感性に関わる限界と言うべきものでしょうが、神の愛と憐みについて語られる聖書の言葉を繰り返し読み続け、聞き続けるうちに、聖書の言葉に対しての慣れが生じ、神の愛ということを聞いても、心が動かなくなってしまっているということが率直に言って私たちにあるのではないでしょうか。大江さんが言っている自動化の問題が、私たちの聖書の言葉の受けとめ方にも起こっていることを思います。
その自動化から解き放ち、神の愛という、わかっていることを――ああ、神さまは愛してくださっているんだ!と、わかっていなかったような(本当にわかっていないということもあることですが)新鮮さで受けとめる体験こそは、詩篇が感動を込めて「みことばの戸が開くと、光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」と表現している体験と言えましょう。そして、それこそは、キリストが約束された聖霊によって「あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを想い起させてくださいます」という聖霊の働きによる異化と言ってもよいでしょう。
今、信仰の友であるひとりが闘病生活を送っています。看護師をしておられてお元気な方でしたから、九時間以上に及ぶ大きな手術を受けたという知らせを聞いたときにはたいへん驚き、ショックも受けました。回復と癒しを願うと共に願っていることがあります。それは、「わたしは良い牧者です」とご自分のことをお語りになったキリストの言葉、キリストのみ声を闘病のなかにある友人が聴くことができるようにということです。それによって、詩篇第23篇が神さまへの信頼を込めて言いあらわしています「主は、私の羊飼い。私には乏しいことがありません……私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから」という言葉が、その友人自身の言葉となるようにと願っています。そのために、病床にある友のためにみことばの戸が日々開かれますように。また、その人を見守り、励ましておられるご家族や教会の方たちにもみことばの戸が開かれますようにと祈り続けています。
(2025.9.28 黒磯教会での講壇交換礼拝説教)
