ベタニアという村で、ひとりの女性がキリストに、1年分の労働の対価に相当する高価な香油を注いだとき「家は香油の香りでいっぱいになった」と聖書は記しています。今日では、アロマ・セラピーという花やハーブなどの香りを嗅いでストレスを軽減し、心身の健康をはかる療法があります。このベタニアで起っていることには健康療法のような意味は全くありませんでしたが、その特異な香油注ぎによって放たれた香りは、ほかでもありませんキリストの心を励まし慰めるものとなりました。
夕食が用意されている食卓でのことです。席についているキリストの足元近くにいたマリアは、ナルドの香油と呼ばれる高価で良い香りのする油をキリストの足に注いで塗り、その足を自分の髪でぬぐいました。そのとき、家中を良い香りが満たしました。
ユダヤ人の間では食事の前に足を洗う習慣がありましたが、キリストはこのとき既に食卓についており、足は洗われた後でした。ですから、マリアがキリストの足に香油を注いでぬぐったのは、足の汚れを落とすためでないことは誰の目にも明らかでした。
マリアはなぜそうしたのか? このことは後にふれることにしますが、キリストに香油を注いだマリアの行為は、はからずも、イエスさまが救い主・キリストであることを示すものとなったという理解が旧約聖書を根拠に古くからなされてきました。
旧約聖書のサムエル記には、サウルが神さまによってイスラエルの王として選び出されたとき、油を注がれたことが記されています。このサウルの後に王となったダビデもまた油を注がれました。このダビデの子孫から救い主があらわれるということは、旧約聖書に記されている大切なメッセージのひとつでありました。そして「油注がれた者」という言葉は、やがてあらわれる救い主を指す呼び名となり、ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語では「キリスト」と呼ぶようになったのです。
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この頃のキリストについて「キリストの心は、自分自身に向かって死の歌だけをうたっていた」と言った人がいます。キリストの心は既に、十字架にかかり死ぬことで一杯になっていたと言うのです。〈まことの神〉であるキリストは、世の罪を取り除くために十字架の苦しみを負うことを迷いなく受けとめながらも同時に、私たちと同じ心と肉体をもった〈まことの人〉として、十字架の死を受けとめる激しい戦いの中にありました。その戦いにキリストは孤独に耐えておられました。
そのような時に、無言のうちに香油が注がれたのです。キリストはもちろん「油注がれた者」の意味を熟知しておられましたから、ご自分に注がれた油の香りが家中を満たしたとき、その香りそのものが―—あなたこそ油注がれた者、キリストです、と語りかけるようであったのではないか、そしてその香りはキリストを勇気づけたのではないかと思います。そうであったからこそキリストは、マリアの行為を咎めたユダに対して言われたのです。
「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」
キリストはマリアの香油注ぎを、油注がれた者に定められている十字架に向かおうとしている自分へのはなむけとして受けとめたのでした。慰めと喜びとをもって。
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ヨハネの福音書は、マリアが香油を注いだのはキリストの「足」であり、そしてそれを「自分の髪でぬぐった」ことを記しています。このことは、たいへん印象深いものですから、同じ出来事を記しているマタイとマルコの福音書が、香油は頭に注がれたと記していることを忘れさせてしまうほどです。ヨハネの福音書はキリストの足について思いめぐらすことを促しているのかもしれません。
マリアが香油を注ぎ、髪でぬぐったキリストの足、それは、
――人間の罪と偽りに満ちたこの世を歩かれた足でした。そして、
――この世を救うために、十字架に向って一歩、一歩、歩んでくださっている足であり、
――神の御子であるお方が、私たちのもとにまで身を低くして歩んでくださった足でした。それらを要約して言えば、
――愛するもののために自分自身を献げてくださった献身者の足でありました。
そのキリストの足にマリアは、自分の持っていた全財産であったであろうナルドの香油を1リトラ(約300グラム)、ユダが値を踏んだところによると300デナリ(労働者の1年分の賃金に相当する)を惜しげもなく注ぎました。そして、女性にとって最も大切なもののひとつであろう自分の髪でその足をぬぐったのでした。
このようなマリアの行為には、キリストに対するまごうことのない感謝があらわれています。そして、その感謝から生じている献身が、強いられ、義務感からというのではない自由な献身がキリストに対してあらわれ出ています。
実にベタニアの香油注ぎの出来事において〈キリストの献身〉と〈マリアの献身〉とが調和しているのを見ることができます。先ず、はじめにキリストの献身があり、それに響きあうようにしてマリアの献身があらわれ出ているのです。
マリアが香油を注いだとき「家は香油の香りでいっぱいになった」と聖書は記していますが、そこでいっぱいになった香りとは、単に嗅覚に感じる甘い良い香りだけでなく、愛する者のために自分をささげる献身の香りをも意味していたといえましょう。
しかし、その香りを苦々しく思う者がいました。イスカリオテのユダです。ユダは、このときのマリアのことを理解できないし、理解しようともしませんでした。その理由はただひとつ、マリアの浪費にありました。
ユダはマリアが香油を手放すことに反対なのではなく「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と、マリアが無駄な香油の使い方をしていることを非難しています。そのようなユダについて聖書は「貧しい人々のことを心にかけていたからではない」と記しています。更に「彼は盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた」とまで言います(この記述の意味については考察が要るでしょう)。
ユダは300デナリを手に入れたかったのでしょうか? そして金持ちになりたかったのでしょうか? そこまでユダは愚かな人間ではなかったと思います。仲間の弟子たちがユダに財布を預けていたのですから、決していい加減な男であったわけではない。ユダという人は、何事にも自分が目にして思う現実を重視する人であったといえそうです。
そのようなユダの目には、マリアの行為が徹頭徹尾、キリストに対する献身によるものであることが見えませんでした。そんなユダにしても、マリアの行為がキリストに対する献身のしるしであることを知れば、それを否定はしなかったでしょう。しかし、献身がそれほどの行為を生むことを認めたくなかった。マリアの行為が何によるものであれ、300デナリの香油を一度に使い切ってしまうことは釣り合わないと金銭勘定に走ったからです。この点がまさにユダの現実重視のあらわれでした。そのような物事の考え方のためにユダは、後にキリストを敵に引き渡すことになってしまうのです。
このようなユダの姿は他人事ではありません。もし私たちがマリアがキリストに対して行ったことと同じような行為を見たときに、―—こんなことは私にはできない、ついていけない……と気おくれするようであれば、自分の心が300デナリの香油を重視したユダの心と違わないものになっていないか自己吟味が必要です。事がキリストに対する信仰にかかわるときに―—ユダの気持ちもよくわかる、などと呑気なことを言っているわけにはいかないのです。
では、ユダのようにならないためにはどうしたらよいのか。答えは、私たちが注目すべきところを間違わないようにすること。ベタニアの香油注ぎにおいて注目すべきところは〈誰が〉300デナリの香油を注いでいるのか、ということに勝って〈誰に対して〉注がれているのかという、この一点に尽きます。300デナリの香油が誰に注がれているのか、その方はどういう方なのか、そのことを真面目に、誠実に想うことができたら、金銭勘定は停止するでしょう。
世の救いのため、私たちの救いのために、今まさに十字架の死に向かっておられるキリスト。神さまと人との間にある罪による断絶、人によっては埋めようのない断絶がもたらす惨めさと恐れからの救いのため、神さまと人との和解を実現するために、十字架につけられて死ぬことをご自分の使命として受けとめておられるキリスト。そのキリストに! ナルドの香油は注がれたのです。
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ナルドの香油を注いだマリアの行為をキリストは無条件に受け入れられました。こうしてキリストを慰め、喜ばせたのは、ユダが重視した300デナリの香油そのものではありません。香油を注いだマリアの献身、マリアの敬愛こそがキリストを喜ばせました。ですから私たちは、300デナリに匹敵するような大きなささげものをすることは自分たちには無理だと嘆く必要は全くありません。
マリアから香油を注がれたキリストは、まさに油注がれた者として十字架のみ苦しみをお受けになりました。それによって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちに生きる救いにあずかりました。その救いの賜物が真実であることを証しする礼拝を私たちは毎週欠くことなく行っています。個人としては礼拝を欠席することがあり、また通うことが困難になったとしても、日曜日に礼拝をする人々の姿がなくならないように、私たちは礼拝をことのほか大切にします。このことは強いられてのことではなく、感謝と喜びから生じている自由な献身によるものです。
キリストによってもたらされている救いの喜びを、ひとりでも多くの人と、殊に悲しみや不安の中にある人と分ち合うことができるように、祝福の担い手としての使命が与えられていることを承認し、受けとめることを毎週、礼拝の中で新しくして行くことが献身の一歩となります。そして、そのような献身が結果として、神が共にいてくださるという平安を、死を前にしても損なわれない平安を確かなものとします。献身と平安は分かちがたく結びついているのです。
この礼拝堂に、キリストに喜んでいただける献身の香りが満たされることを願いながら、礼拝をささげてまいりたく思います。
(2025.10.26)
