聖霊降臨主日礼拝説教
今、お聴きしました聖書には、聖霊が降られたその日、三千人もの人がバプテスマを受けたことが記されていました。たった一日で、三千人の受洗者! この使徒の働きの記事を読むにつけて思い出す聖歌があります。その聖歌とは先ほど歌いました136番です。そこにはこう歌われていました。
『御霊よ、降りて昔のごとく、奇すしき御業を現わしたまえ』
一日に三千人の受洗者というようなことは、今の時代、この日本では考えられないことです。ですから、昔のように、あの五旬節の日に起こった出来事のように奇跡的なみわざを現わして下さいと歌うことは、素直な願いをあらわしているといえるかもしれません。しかし、一日に三千人の受洗者を生んだという出来事については、こんなふうに受けとめて考えることもできるのではないでしょうか。
あの日、天からの風がもっと強く吹いて、炎のような舌がもっと激しく燃えて、ペテロの語った説教が三千人の心に届いたというだけでなく、この様子を傍観し、呆気にとられ、驚き、嘲りさえしていた人々をも引きずり込んでしまうことがなぜ起こらなかったのか? ほかならぬ聖霊が降られたのですから、三千人といわずに、その場にいた人間すべてが悔い改めて洗礼を受けるということがどうして起こらなかったのか?
三千人という人数は、一度に洗礼を受けた人の人数としては、確かにたいへんな数といってよいでしょう。しかし、この日、エルサレムにはそれ以上に、その何倍もの人々が集まっていたのです。ですから、洗礼を受けた三千人というのはエルサレムで五旬節の祭りを祝っていた人の一部でしかなかったのです。
ですから、この三千人という数をとてつもなく多い人数としてだけで捉えしまうならば、聖霊降臨の出来事を正しく理解したことにはならないといえます。聖霊降臨によって起こった出来事、それはエルサレムに集まっていた人たちの中からほんの一部を抜き出すようにして、一つの群れがつくられたということなのです。
聖霊が降られたことは、誰一人予想もしていない、突然の出来事であったというのではありません。キリストは十字架にかけられる前に、弟子たちに、やがて与えられる聖霊についてこうお語りになっていました。
こうお語りになりながらキリストは「もう一人の助け主」としての聖霊が弟子たちのところに来てくださるということを約束なさいました。そしてそれだけでなく、キリストはもう一つのことを付け加えておられます。それは、助け主としての聖霊をこの世は受けることができないということをです。誰もが同じように聖霊を受けることができるわけではない、全ての人が聖霊を受けることができるわけではないということをキリストはお語りになっていたのです。そして、事実、五旬節のエルサレムにおいても、洗礼を受けて聖霊を受けた人は、そこに集まっていた大勢のなかの一部、三千人だったのです。
今、ヨハネの福音書からキリストの言葉を想い起しましたが、皆さんのほとんどが知っておられるであろう聖書の言葉が、このヨハネの福音書には記されています。第3章16節です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神は独り子をおあたえになるほどにこの世を愛されました。そしてこの世を救うために御子キリストを遣わしてくださいました。特定の人たちのためだけにキリストを遣わされたのではありません。「世」の救いのためにキリストは来て下さいました。そのことを真剣に受けとめるときに、キリストにこうおたずねせずにはおれなくなります。
「主よ、あなたはこの世を救うために来て下さいました。そのあなたが復活され天にお帰りになった後、あなたの代わりに、もう一人の助け主として聖霊が来てくださいました。しかし、その聖霊はなぜ、この世には与えられないのですか。なぜ、ペンテコステの日、三千人の人々しか洗礼を受けることができなかったのですか?」
こうした問いに対する答えは、聖書にはっきりと直接的に記されているわけではありません。ペンテコステの日に洗礼を受けた人がなぜ三千人だったのかという理由も聖書には記されていません。ですから直接の答えはわかりません。しかし、キリストが伝道のお働きの中でなさってこられたこととお語りになったこととを想い起すことで、こう申しあげることはできるでしょう。
キリストを受け入れないこの世は、もう一人の助け主としての聖霊を受けることはできません。助け主が来て下さっていてもそれを知って喜ぶこともできません。しかし、それだからといって、この世は神から捨てられているというわけではありません。
ペンテコステの日、洗礼を受けたのは確かに三千人ほどでした。そのことは、洗礼を受けなかった人々は、神の愛から除外されたということを意味しているわけではありません。ならば、ペンテコステの日の三千人は何を表しているのか。
神は、独り子が十字架につけられることをみ心とするほどに世を愛されました。だからこそ、この世を愛するがゆえに! 三千人を選び出され、それによって教会を産み出されました。
そのために洗礼を受け、その賜物として聖霊を受けた者は、神が共にいて下さるという慰めを知る者とされました。その聖霊による祝福を携えて、クリスチャンは世に派遣されていくのです。ペンテコステの三千人は、その派遣の最初の一陣なのです。
空気でも水でも、全く動きがないと濁ってきてしまいます。暖かい空気と冷たい空気が一緒になることで空気の動きがうまれます。私たちが、お互いに助け合い、愛し合うことにおいても似たような面があります。
もし仮に、私たち全員が、健康状態においても、経済的な面においても、全く違いのない者同士であったら、そこに助け合いということは起こらないでしょう。その必要がないのですから。そうではなくて、助ける人がいて、助けられる人がいる。そこに助け合いという流れが生まれてきます。その流れをとどめてしまわないで、しっかり流れるようにする、そのための祝福が聖霊を受けた者には与えられるのです。
マザーテレサが次のようなことを書いておられます。
ある夜のこと。一人の男性が訪ねて来てこう知らせてくれました。
「八人の子持ちのヒンズー教徒の家族が、このところ何も食べていません。食べるものがないのです」。そこで私は一回分の食事に十分な米を持ってその家に行きました。そこには、目だけが飛び出している子どもたちの飢えた顔があり、その顔が貧しさのすべてを物語っていました。母親は私から米を受け取ると、それを半分に分けて家から出て行きました。しばらくして戻ってきたので私は尋ねました。
「どこへ行っていたのですか。何をしてきたのですか」。すると母親はこう答えました。
「彼らもお腹をすかしているのです」。『彼ら』というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことでした。そこにも八人の子どもがおり、やはり食べる物がなかったのでした。そのことを知っていた母親は、わずかな米の半分を他人と分かち合う愛と勇気を発揮したのでした。この(ヒンズー教徒の)母親は、自分の家族がおかれている貧しい状況にもかかわらず、私が持って行った食事一回分の米を(イスラム教徒の)隣人と分け合うことの喜びを感じていたのです。
この男性がマザーテレサのもとに行き、貧しい家族のことを知らせたのは、そうすればマザーテレサが何とかしてくれるのではないかと思ったからでしょう。キリストの弟子の一人として、貧しい人のために仕えているマザーテレサのことを、この男が思い出したことは生きた証しのなさせる結果です。
マザーテレサは貧しい家族に食べ物を届けました。すると、届けられた食べ物の半分を母親は、別の貧しい家族に届けました。ここに、助け合いという愛の流れがいきいきと流れているのを見ることができます。
こうして聖霊は、必要ならばクリスチャンでない人をも用いて愛の流れを広げます。そのためにも、マザーテレサのように愛の流れを最初につくる人がいなければなりません。そのような人の第一陣がペンテコステの三千人であったのです。そして私たちもそれに加えられている。聖霊がおつくりになる愛の流れを生み出すために器とされているのです。
(2022年6月5日 聖霊降臨主日)