創世記第1章14~19節「神からの賜物としての時間」 

 創世記は、神さまが天地をお造りになったその働きを6つに区切って、それを6日の働きとして記しています。その働きのなかで頂点、クライマックスとなるのは「第6の日」になされた人間の創造です。
 この人間の創造はまさにクライマックスであり、他の第1から第5の日において神がお造りになったものは、これはみな人間の創造に備えるためのものでありました。
 つまり、神さまは思いつくままに天地を造られ、たまたま最後に人間を造られたというのではなく、神さまによる天地創造は、はじめから人間を創造することを想定して、人間のためになされたということを創世記は語っているのです。
 ですから「第4の日」に造られた太陽と月、そして星といった天体も、これは人間のために造られたものであるという、天文学者が聞いたら眉をひそめるようなことを創世記は堂々と記しています。

 さて、神さまは天体を人間のために造られたのですが、それをどのような目的で造られたのか。その天体の果たす役割について、創世記は少々くどいほどに詳しく記しています。

神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け季節のしるし日や年のしるしとなれ。」(14節 新共同訳)

神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。(16節)

 ここで神さまがなさったことは、太陽や月、星といった天体が、昼と夜、春夏秋冬、そして1日、1年という時を刻むための役割を果たすようにされたということです。こうして神さまは、人間が時を意識し、時間を数えることができるようにしてくださいました。このことから、こう申しあげることできるのです。時間もまた神さまのつくられたものであり、私たちに与えられている時間は神さまからの賜物であると。

 ところで私たちの間では「時間」をめぐって、しばしばこういう声が聞こえてきます。――ああ、時間がない、時間が足りなさい、もっと時間があれば…… そこで先に申しあげたことを念頭に立ち止まって考えてみなければなりません。

 神さまが与えてくださっている1日という時間は、私たちが足りないと嘆くほど、ほんとうに少ないのでしょうか? 神さまは1日の時間に関して、私たちに少ししか与えてくださらないケチなお方なのでしょうか?
 私たちはあまりにも自分の腕時計の針ばかりを気にしすぎて、神さまがつくってくださっている時の刻み、たとえば昼と夜の区別を軽んじすぎているのではないか。そこに時間が足りないと嘆く原因がありそうです。

 昔の人は、目覚まし時計がなくても、太陽が昇れば目を覚まして畑に出て働き、夕方になれば仕事を終え、月が空に明るく昇るころには布団に入っていました。
 岡山県の山奥にありました大原教会におりました頃の思い出として、この地方では冬の季節、とくに雪が降ると物事のめぐりがゆっくりになったものです。
 教会でも冬というのは、1年のなかでクリスマスをのぞけば活動の少ない、春に備える季節といえます。ならば1年中、真夏の赤道に近い国々の教会はどうなのか。1年中、ゆっくりしていると聞いたことがあります。
 こうしたことは、単にのんびりとした原始的な生活なのでしょうか。そうではありません。神さまが太陽と月を造り、それによってつくられた時を受けとめる生活の本来の姿と言えます。 

 もっともこういう話をすると反論もあるでしょう――21世紀の日本で、ことに人口の多い街、都会ではそんな生活はしたくてもできやしません……
 ごもっともです! ならば私たちはどうしたらよいのか。そこでキリストの言葉を思い出したいのです。時間が神によってつくられたものであることを誰よりも深くご存知であるキリストは、21世紀の日本社会にも通用する生活の教えをこう語られています。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)

 私たちの生活には苦労がつきものです。その労苦は、太陽が昇っている間だけで十分。太陽が沈んだら、もうそのことで思い悩まない。このキリストの教えは、私たちに神さまのつくられた時間の感覚を取りもどさせるものといえます。

 私たちは、1日の生活の時間のことだけでなく、人生の時間の長さ、つまり寿命をめぐって心を重くさせたり暗くさせたりすることがあります。それゆえに、たとえば、家族が亡くなったとき――ああ、あの時、気がついていれば……とか、――あの時、もっとよく考えて病院を選ぶべきだった……といったことを悔やんだりもするのです。
 そのように、家族に対する配慮や思慮が足りなかったということが悔やまれるとき、そういうところでも私たちは厳粛な事実を受けとめることを忘れてはなりません。天体を造られて、時を刻ませ、時間をつくられた神は、ひとりひとりの人間に与えられる時間についても定めておられる。人生の始まりと終わりとの刻みは神が決定されるということをです。
 そのことを受けとめることができるなら、私たちは必要以上に自分や家族の寿命の長さについて、あれこれと思い悩むことから解放されるのではないでしょうか。それだからこそ、キリストはこうおっしゃってもいるのです

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(マタイ6:27)

 最後にもう一つ大切なことを受けとめたく思います。
 創世記は、神さまが太陽と月をお造りになったことを記すに当たって「大空に光る物」(14節)とか「二つの大きな光る物」(16節)という言い方をしています。なぜ、こんな言い方をしたのか、その理由は一つ。「太陽」と「月」という言葉を避けたからです。そのことは、創世記がどんな時代を背景に書かれたかということを表しています。
 古代中近東では「太陽」と「月」を表す言葉は、神の名でもありました。人々は太陽と月を神として拝み、人間の人生はゆりかごから墓場まで、太陽と月によって支配されることが信じられていました。いわゆる天体崇拝が人々の間に広く浸透していたのです。
 それで創世記の著者は、太陽と月という呼び名を使わなかった。そして、天体は、神によって造られたものであり、天体そのものは神ではないということを暗に、しかし強く語っているのです。

 しかし、天地の造り主である神を信じる人々の間でも、この天体崇拝は大きな誘惑になっていたようです。太陽の動きや月の満ち欠けの力によって人間の運命が支配されるという教えは、受け入れられやすい、また魅力的な教えのようにも感じられたからです。それで申命記には、天体崇拝を禁じる警告が記されることになります。

「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。
それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。」(申4:19)

 太陽や月、星が人間の人生を支配するという天体崇拝は、古代社会の人々が虜になった過去の話ではありません。現代においても天体崇拝の考え方が人々の心を惑わせていることがあります。ある書物でこんな話を読んだことがあります。

 ある病院の個室に入院している患者が自殺をはかりました。原因は回復の見込みない病気の苦しみでした。この患者は後に、信仰生活を送るようになり、残された自分の時間と向き合って、病の苦しみに耐える生活を送るようになりました。しかし、それには次のような道のりがありました。

 この患者は、昼夜、手厚く看病してくれている妻に対して、しばしば乱暴な仕打ちを働いていました。その原因は、その男が星占いの本を持っていることにありました。この男は、数十年間もの間、星占いの本に従って生きてきたのでした。そして、事業家としての成功を築きあげてきてもいたのです。

 男は、病床に伏すようになってから、もう一度、星占いの本を入念に読む生活をつづけました。そして今まで気がつかなかった事柄に心を強く引き寄せられました。そこには多くの事柄に混じって、何月何日生まれの者には注意せよと書いてあったのです。男の妻の誕生日がまさにその日でした。それ以来、男は自分の妻の献身的な看病は、単なる見せかけであり、自分の不幸はこの妻のせいであると考えるようになってしまったのでした。しかし、幸いなことに、後に男は星占いの本を焼き捨てることができたのです。

 このときから男にとって、太陽と月、星は、自分の人生を左右する運命の支配者でなく、太陽と月、星は、神さまが人間のために造られた僕となったのでした。そればかりでなく、太陽と月が刻む昼と夜、春夏秋冬という季節、1日、1年という時間を神から与えられた賜物として、また自分に残された命の時間をも、神からの賜物として感謝して生きるようにされたのでした。

(2023年5月7日主日礼拝説教)