待降節礼拝説教「将来に希望を持つために」


民数記 第14章21節

1、聖句を聴きとるヒントとして
 音楽の父と呼ばれるバッハは、待降節やクリスマスの礼拝で演奏するための教会音楽をたくさん作曲しています。そのひとつである待降節第1主日用教会カンタータの終曲は、3本のトランペットによるファンファーレのような輝かしい吹奏によってはじまります。

 ラッパの吹奏は、古来、王の到来を告げるために行われました。また、あることの始まりや出発を報せる信号としても用いられています。この輝かしいラッパの音を(CDで)聴きながら、世界を治めるまことの王としてお出でになったキリストの降誕を想わせられます。

 キリストがお生まれになった夜、救い主の誕生が羊飼いたちに告げられた後に、「天の軍勢」が讃美をしたことをルカの福音書は記しています。軍勢による讃美というのですから、そこには軍楽隊が演奏するようなファンファーレが響いていたかもしれません。いずれにしても、天の軍団による讃美は、羊飼いたちを「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう」と馬小屋にむけて出発させる信号ラッパのような働きをしたといえましょう。

 そして、ここからが本題ですが、私たちが聴いています「しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上」(民数記第14章31節)という言葉は、今申しあげてきたラッパのような役割を果たしているということができます。

 

2、荒野における民の嘆きと不満
「しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上」
 この聖句を私たちは今、待降節のみことばとして聞いているのですが、そもそもは、神によるさばきの言葉として語られたものです。それには、次のような経緯がありました。

 エジプトで奴隷の苦しみを受けていた人々の叫びをお聞きになった神は、指導者としてモーセを立て、人々を救うためエジプトから脱出させます。その後、シナイ山でモーセは「十戒」を授かります。こうしてエジプトを逃れ出た人々は神の民として、アブラハムからはじまりました神による祝福の担い手となりました。そして神によって約束された土地に向けて、荒野のなかを進む40年に及ぶ長い旅がはじまります。

 約束の地カナンに近づいたとき、偵察隊が差し向けられます。偵察を終えて帰ってきた人たちの報告を聞いたとき、民の心は不安と恐れに満たされてしまいます。約束の地には、既に、恐るべき力の強い人々が住んでいることがわかったからです。そのあと、民がどのような態度をとったかを聖書は詳細に記しています。夜通し泣きごとを言う者、エジプトに帰えろうとつぶやきあう者、指導者であるモーセとアロンに、エジプトにいた方が良かったと不平不満を投げつける者が続出しました。偵察隊の中には、肯定的な報告をし、神を信頼してカナンに進むべきであることを説得するヨシュアとカレブのような人もいましたが、民はその説得を聞かず、二人を石で撃ち殺せと言う始末でした。

 こうして荒れ野における嘆きと不満が民の間に満ち、神の約束を信じて前に進もうとせず、後ろに逆戻りしようとした民の態度に神はお怒りなりました。モーセは民を赦してくださるようにと懇願し、そのとりなしを受け入れた神は赦すと言われました。そして神は語られたのです。
「しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上」

3、わたしたちにとっての荒れ野
 クリスマスは、私たちがお互いの誕生日を祝うように、キリストの誕生日を祝うわけではありません。キリストの降誕は、神による祝福の新しい時代の開始であり、そのために世界を治める王としてキリストがこの世に来てくださいました。そのことが、馬小屋でのイエスの誕生によって実現したのです。ですからクリスマスの讃美歌は「ハッピー・バースディー・ツゥー・ユー」ではなく「主は来ませり」と歌います。

 このような神の祝福による新しい時代が、クリスマスによって既に始まっていることを知りながら、私たちには、あのエジプトから脱出してきた民と同じような過ちに陥る弱さがあります。民は偵察隊の〈報告や情報〉を聞いて、嘆きと不満に陥ってしまったわけですが、私たちがインターネットなどを介して、将来の偵察ともいうべきさまざまな〈報告や情報〉を受けとったときにどうするか、そのことが問われます。

 社会の将来について、「2030年問題」「2040年問題」といった言葉を耳にします。現在の人口統計によるならば7年後、17年後、未曽有の少子高齢化社会となり、年金や医療などの社会保障を維持するためには若者への負担が今以上に増すことになるとか深刻な働き手不足に陥るとか……。

 個人として自分の将来についてはどうでしょう。世間では「人生100年時代」といわれますが、100歳まで生きる人はやはりごく一部ですし、60歳代、70歳代でも老いの現実として、身体の痛みや不自由は年を追うごとに大きくなってきます。80歳代、90歳代になれば、自分の老衰と終わりの時が近づいてきていることを自分がはっきりと感じとれるほどになります。

 ストレスの多い仕事の毎日でくたくたになっている若者は、ストレスを解消するための生活で精一杯。そんな状況下で高齢者から「私はもう高齢だから、これからはあなたに任せますよ、〇〇のバトンを引き継いでがんばってほしい」と励まされても、気が重くなるだけかもしれません。

 そうしたときに、どうするのか。泣き言をいう。不平不満を募らせる。責任者につめよる。こうなったら、あの約束の地を前にして、後戻りをしようとした民と同じです。嘆きと不満に陥り、さらには神を侮った民の姿は、信仰者にとって他人事ではありません。では、そうならないようにするためにはどうしたらよいのでしょう。

4、信号ラッパを聞きながら
 そこでこそ、冒頭で申しあげてきた待降節の信号ラッパを聞きとるのです。そのラッパはこう告げています。
「しかし、わたし(神)が生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上」

 ここには二つの福音が含まれています。「神が生きておられる」、「主の栄光が全地に満ちている」。この二つの福音を根拠に、私たちは社会の将来に、そして個人としての将来に備えるのです。その際に、この聖句をこんなふうに自分に言い聞かせることはゆるされることでしょう。

「わたし(神)が生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上」というのは、本来の文脈からすると、神は生きている以上、その生きている神をあなたがたが侮るならば、あなたがたは約束の地を見ることはない……という、神のさばきと警告を語るためのものです。それを、民数記の文脈から離れて次のように読むのです。

「神が生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、2040年問題と呼ばれる社会のなかでも、神による希望は決して失われることはない。」
「神が生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、私が最後の時をむかえるときも、主の栄光が照らす平安のうちに、その時を迎えることができる」

 こうして民数記に記されている民に対して語られた神の言葉は、待降節を迎えている私たちにとって、生きておられる神とその独り子キリストによる希望を告げる輝かしい信号ラッパとなります。その響きを感じとりながら、将来に向けて心を高くあげてまいりましょう。そして歌い慣れたクリスマスの讃美歌を、私たちが信号ラッパを吹奏するような気持で歌おうではありませんか。

♪もろびとこぞりて いざむかえよ。
 久しく待ちにし 主は来ませり 主は来ませり……
♪この世の闇路を照らしたもう。
 光の君なる 主は来ませり 主は来ませり……

(2023年 待降節礼拝)

〈参考〉バッハ作曲の待降節第1主日用教会カンタータとは、カンタータ第63番「キリスト者よ、この日を彫り刻め」です。