ペンテコステの恵み「聖霊によって新しくされる耳と目」  

聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。 箴言第20章12節

 私たちの体の一部である耳と目を神さまがお造りになったということは、クリスチャンにとっては驚くようなことではなく、むしろ当然のこととしてこれを受けとめています。旧約聖書の創世記には、神さまが人をお造りになったと記されています。だから耳も目も神さまがお造りになったと考えるのは当然のことだと思うからです。
 ところで、先ほど聴いた箴言の言葉は、神さまが私たちの耳と目を造られたということ以上のことを言おうとしています。そのことを聞き取るために注目したいのは、この箴言の言葉はたいへん短いものなのですが、それでも、単に「耳と目」と言うのではなく「聞く耳と見る目」という言い方をしていることです。わざわざ、「聞く」耳、「見る」目とことわっているのです。そこで、思い出されるのは、イエス・キリストが度々こういう言い方をなさっていたことです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」

 箴言が「聞く耳」「見る目」という言い方で暗に示していること、それは、神さまは、私たちが聴力と視力とを神さまの願われるように用いることを望んでおられるということです。
 そこで神さまは、私たちの耳と目を造り変えるために、クリスマスの恵み、イースターの恵に続く、ペンテコステの恵を与えてくださいました。つまり聖霊を遣わしてくださったのです。この聖霊が私たちを新しくする造り主となってくださいます。教会に伝わる古い祈りが「造り主なる聖霊よ」と呼びかけるのは、私たちの目と耳とを造りかえる造り主としての働きに着目してのことです。
 聖霊による私たちの目と耳の造り変えは、その日その日の出来事、あるいは、その瞬間、その瞬間の出来事であり、一度、造り変えられたら、それがずっとそのまま固定するというものではありません。ですから、造り主である聖霊への呼び求めは、私たちにとって日々の祈りとならざるをえません。



 さて、聖霊によって目と耳が新しく造り変えられるということは、具体的なことであり、生活そのものが変えられるほどのものです。そのことを表す象徴的な例を紹介しましょう。

 ヨーロッパのある国でのこと。ひとりの男性クリスチャンが修道院の生活を体験することを願い、それが許され、朝から晩まで、修道士たちと一緒にミサや一日に何度も行われる祈祷会に同席するという生活を続けました。
 そうしているうちに、この男に変化が起こりました。それは食事の時のことでした。修道院の食卓には、よくジャガイモが出てきました。茹でただけで皮もむいていないジャガイモです。実はこの男はジャガイモが大嫌いだったのです。ところが、男はジャガイモを手に取ってこう言ったのでした。
 ――ああ、なんと美しいジャガイモだろう。何と尊いジャガイモ!
 聖霊は男の目を造り変えて、ジャガイモのような野菜一つをとっても、それは神さまが人間の食物とするために与えてくださっているものであることを見ることのできるようにしてくださったのです。

 旧約聖書には、イザヤ、エレミヤ、アモスといった預言者が出てきます。この預言者たちは、特別に聞く耳と見る目とを与えられた人たちであったといえます。そうした預言者たちは、当時の社会をどのように見ていたか。それは大まかに言うとこうでした。
 世間が国の繁栄を喜んでいる時、イスラエルの人々が自分たちは神から祝福されていると喜んでいるような時、しばしば預言者たちは警鐘を鳴らしました。イスラエルが繁栄と成功のなかで傲慢に陥ってしまっている罪の現実を見ていたからです。
 逆にイスラエルが惨めに境遇に陥っている時、預言者はそうしたイスラエルの民に対する神の憐みを見て、また神の憐みの言葉を聴き、それを民に語り告げました。

 キリストもそのような見る目をお持ちになった方でした。ヨハネの福音書第9章には、キリストと弟子たちが、生まれつき目の見えない人をご覧になったときのことが記されています。
 弟子たちは、生まれつき目が見えない人のことを、この人自身が罪を犯したから、あるいはその両親が罪を犯したから不幸な境遇にあると見ていました。しかし、キリストの目に見えたのはそれとは違いました。ですからこう言われたのです。
「この人に神のわざが現れるためです」

 大阪の教会におりました時に、クリスチャンの精神科医である工藤信夫先生を招いて、人間関係の学びをしたことがありました。その学びで印象に残っていることがあります。それは、話すことに勝って、聞くこと、見ることを大切にするということでした。どうも今日のクリスチャンは、聞くことと見ることをすぐに通り過ぎて話すことに偏りがちではないか。とくに牧師はそういうところがあるのではないか、と工藤先生の話を聞きながら思いました。
 その学びの中で、子どもが不登校になった事例をとりあげ、それをどう見るか、ということを先生は語ってもくださいました。不登校の子どもがいると――それは困ったこと、早く学校に行けるようにならないと……と考え、不登校ということをマイナスでしか見ない。しかし、精神科医として不登校の子ども見ると、学校に行かないということを通して自己形成をし、自分を立て直すことをしているというのです。
 そういう話を聞くと、なるほど、自分の不登校児に対する見方は偏っていた。悪い面ばかりを見ていたと反省することになります。それなら、これからは不登校児を、もっと暖かく見守っていけるのかというと、それが簡単にはいかないものです。特に自分の子どもがそうであるときなどは。絵に描いたような典型的な不登校児などはいません。みんな違いがあります。屁理屈ばっかり言って親に逆らっているような子どもを見ていると、精神科医の先生の教えてくれていたこともどこへやら、ということになりかねません。そういう私たちの現実があるからこそ、箴言が言う見る目が、聖霊によって日々新しくされる必要があることを思わせられます。

 使徒パウロはこう言っています。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(コリントⅡ4:18)

 聖霊によって新しくされる目は、見えないもの、すなわち、神のお働きに目を留めさせます。何よりも神の愛そのものである十字架にかかられたキリストに目を留めさせます。
 復活されたキリストは、私たちが見えていない現実――例えば、不登校によって自己を立て直そうとしている子どもの現実―ーを深い憐みをもってごらんになっていてくださいます。そのようなキリストに目を留め、キリストの言葉を聴くときに、相手を受けとめる余裕が生まれてくるのだと思います。キリストのお働きを見る目、キリストの言葉を聞く耳が、聖霊によって新しくされることは、私たちの信仰がしっかと生活に根を下ろし、隣人を愛するものになるためには、何としても必要なことであるといえましょう。だから、共に祈ろうではありませんか。

祈り

父なる神さま
さまざまな情報が溢れかえっている中で生活している私どもが、
人として生きるために、
他者を慰め、励ましうる信仰者として生きるために、
見るべきものに目を留めることができるようにしてください。
聞くべきものを、殊にあなたの言葉、神の言葉を聴くことができるようにしてください。
造り主である聖霊の恵みによって、今日も、
私どもの目を見えるように、耳を聞こえるように新しく造り変えてください。
主の御名によって。アーメン。

 (2024年 聖霊降臨主日礼拝)