2025年クリスマス礼拝説教
キリストがお生まれになったクリスマスの出来事を、美しい光景として思い浮かべる人は多いでしょう。聖夜における馬小屋の光景をレンブラントやルーベンスといった画家たちが描いていますが、その絵もまた美しく、見る者を引きつけてやみません。
「クリッペ」と呼ばれるヨセフとマリア、そして幼子イエスの人形による飾りがあります。そこには聖家族だけでなく、馬小屋で飼われている動物や、天使の知らせを聞いて駆けつけてきた羊飼いとその羊の人形も一緒に飾られていることもあり、のどかな暖かさを感じさせるものとなっています。
そうした絵やクリッペを見てクリスマスの出来事を美しく想い起し、そこに暖かさすら感じとることは、さいわいなことではあります。しかし、ここに大きな間違いも潜んでいることに注意しなければなりません。勘違いしてはならないのは、クリスマスの出来事そのものは、決して美しいものでも暖かさに包まれたものでもなかったということです。
では、なぜ、美しいものではなかったクリスマスの出来事を美しく表現するのでしょうか。それは〈事実を認定〉することと、その〈事実をどのように受けとめるか〉ということとは別のものであることから生じます。
クリスマスの出来事は、事実としては決して美しいものではありませんでした。その美しいとは言えない出来事に込められている意味を見出すことによって、それを喜ばしく受けとめることができるにようになる。その結果としてクリスマスを美しいものとして捉え、それを美しく表現するのは良いことです。しかし、クリスマスについての事実認定をしないままに絵や飾りを見て、クリスマスの出来事を最初から美しいイメージでとらえてしまうことは、クリスマスの福音を台無しにしてしまいかねません。
このようなことを申しあげるのは、クリスマスを祝いながら〈つかの間の楽しみ〉にしたくないからです。私たちはクリスマスを〈希望〉として受けとめてまいりたい。みなさんおひとりひとりが生きていくための希望をクリスマスから見出して行かれますことを願っております。
年末になると1年を振り返ることが行われますが、みなさんのそれぞれが今年の「5大ニュース」を数えてみたらどうなるでしょうか。
嬉しいこと、良かったこととして何を数えるでしょう。日本人のノーベル賞受賞、大谷選手の活躍などをあげる人がいるかもしれません。明るいニュースではありますが、率直に言って私たちの生活への影響は小さなものでしょう。
それに対して困ったことや心配なことに関するニュースは、生活に直結するものが多いように思われます。物価、米価の上昇。熊。身近なところでは仕事をめぐって労苦や悩み、体の衰え、心と身体の健康。そうしたことから経済的な不安、生きることの不安を大きくする一年であったという人もあるでしょう。
こうした現実の中に生きる私たちにクリスマスは希望をもたらすものとなります。その希望を受けとめるために、クリスマスを最初から美しいものとしてしまわないで、聖書による事実認定からはじめることが必要なのです。
1、キリスト誕生の事実認定(1~7節)
ここには不思議なこと、聖なることは何も語られていません。感動を呼び起こす美しいイメージを与えてくれるような言葉は一つもないと言ってよいほどです。
ここに書かれてあることは、一人の女性が子どもを産んだというごく普通の出来事です。しかし、その人間として普通の出来事が、極度の貧しさ、苦しさ、不安、困窮に覆われています。そのことを聖書は、簡潔に4つの事柄として記しています。
- 出産に先立ち、住民登録についての勅令が発せられました。「勅令」とは皇帝の名による命令。絶対的な服従が強いられました。 「住民登録」は税の取立や徴兵に役立てるためのものでありましたから、人々に喜びをもたらすものではありません。
- この勅令によってヨセフとマリアはベツレヘムへ旅することになりました。5節の「身重になっていた」は重い言葉です。ヨセフとマリアは勅令に従うために何度ため息をついたことでしょう。この勅令は、身重になっていたマリアすなわち妊婦と胎児のいのちを危険に晒すものとなっていたと言えます。
- マリアの出産について語る7節の「初子を産んだ」も重い言葉です。はじめて体験する生みの苦しみ、それだけでもたいへんな苦しみです。それを馬小屋で耐えなければなりませんでした。更に生まれた子をねせるための床はなく、家畜のえさを入れる「飼い葉桶」を代用するしかほかにありませんでした。
- 馬小屋での出産は偶然によるものではなく理由がありました。その理由を聖書は省略することなく短い言葉ではありますがはっきりと述べています。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」
宿屋はあったのです。しかし、初子が生まれそうになっている妊婦のためになんとか部屋を工面しようとする者はいませんでした。困窮していた若い二人を助けようとする者はいなかったのです。馬小屋が提供されたのだから最小限の助けは与えられた? それは助けといえるでしょうか。例えば戦火の下、皆が皆、馬小屋に泊まるのなら話しは別ですが。
こうした聖書による事実認定から分かるのは、マリアの出産に至る出来事には、うっとりするような美しさや暖かさは微塵もなかったということです。「身重になっていた」人を配慮するどころか危険に晒し、「初子を産む」という苦しみと不安に耐えている妊婦に誰も助けの手を差し伸べる者はいなかったという、冷たい愛のない人間の現実。それによってもたらされた極端なまでの貧しさを物語るものでしかない。それが聖書による事実認定です。美しいところは全くありません。
今、ここで一つ一つ確認した事柄は、遠い昔の異国における話ではありません。私たちの時代、この国にも起こりうること、また次のような形で起こっていることではないでしょうか。
- 勅令による強制……猶予を求めることが許されない。困難を分かってもらえない。出るのはため息ばかり。
- 馬小屋での初子の出産……苦しみに追い打ちをかける貧しさ。
- 宿がないという困窮……豊かさの中にいる人がいる一方で、困窮の中にいる人がそのままにされている。※福祉の制度があっても助けが行き届かない人がいる。
こうした社会、人間の現実を見てどう思うでしょうか。
「これが社会の現実」と諦めるか、
「だれも私を理解してくれない」と嘆くか、
「こんな格差があってよいのか」と憤るか。
そのように思わせてしまうこの世・人間の世界にキリストはお生まれになったのでした。そのようなところにお生まれになったキリストのことを最初に知ったのは野原にいた羊飼いたちでした。羊飼いたちは、天からの告知と讃美を聞いてクリスマスの福音を知ったのでした。
2、馬小屋の出来事を美しく受けとめさせる告知と讃美(8~14節)
今朝は、天使の告知に続く14節に記されている讃美に注目しましょう。
いと高きところで、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。
この讃美は『天使の讃歌』と呼ばれることがよくありますが、聖書はこの讃美をしたのが御使いと「おびただしい数の天の軍勢」であったことを記しています。御使いすなわち天使と区別して「軍勢」のことが語られているのです。協会共同訳は「大軍」と訳出しています。かなり大きな軍の集団を思わせる言葉です。
そこで、軍の組織によって奏される音楽のことを考えてみると、その類の音楽や歌はたいてい先ず国家や元首の栄光をうたい、続けて平和を勝ち取るための勝利を歌うものが多いのです。
天の御使いと軍勢がうたう讃美も先ず、いと高きところにおられる神の栄光をうたいます。この世を救おうとなさる神のご計画が前進し、成し遂げられることによって神は栄光をお受けになります。罪のもたらす悲惨の中でさまよい生きている人間が、罪から立ち直り希望をもって生きることができるようになることで神は栄光をお受けになる。そうした救いのためにキリストがお生まれになったことは神の栄光のさきがけともいえることでした。その神の栄光は、のちにキリストが十字架にかかられたときに頂点に至ります。
こうした神の栄光は、国家の栄光とは似ても似つかぬものです。国家の栄光だとか力を誇示する国に限って、国民は虐げられているのが常だからです。
地の上すなわち私たちの生きる世界については平和がうたわれます。この「平和」とは単に、争い、戦争のない状態という意味ではありません。私たちの心から不安、恐れ、疑い、憎しみといったものが取り除かれた状態を意味し「平安」と言い換えられるものです。そうした心であれば争いは生じません。そのような平和が「みこころにかなう人々にあるように」とうたわれました。
このことを、平和を受けるための条件としてみこころにかなう必要があるとか、平和を受けることのできる人々とはみこころにかなう人だけという制限のようにしてしまわないように注意しましょう。
そもそもこの讃美がうわわれたとき、みこころにかなう人はこの世にはいませんでした。マリアが馬小屋で出産しなければならなかったことが、みこころにかなう人が現実にはいなかったことを証しするものとなっています。そのような人間の現実をローマ人への手紙は次のように記しています。
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない……。善を行うものはいない。誰一人いない」(第3章11~12節)
このようなみこころにかなうとはいえない人間を神は〈棄て、滅ぼす〉のではなく〈愛し、救う〉ことをお選びになりました(これこそが「神の選び」と呼ばれる神学用語の意味することです)。みこころにかなわない人間が、真にいきいきと生きることができるようになるために、そのために神と人とを愛して生きる者となれるよう、神は御子キリストを世に生まれさせてくださいました。それゆえに「みこころにかなう人々」とは、すべての人が対象とされているのです。
神は、キリストを偽りと罪に満ちているこの世に送ってくださることによって、すべての人をみこころにかなう者とするための戦いを始めてくださいました。それゆえに天の讃美の後半は、こう歌いあらわしていると言ってもよいのです。
「地の上で、平和がすべての人にあるように、キリストによってみこころにかなう者とされる人に!」
こうして天の御使いと軍勢による讃美には、私たちが聖書から事実認定をしました人間の罪がもたらしている貧しさ辛さに覆われたマリアの出産に至る出来事が、栄光を神がお受けになるための、そして地に平和をもたらすためのものであることが示されています。これを受けとめるとき、クリスマスの出来事は美しいものとなるのです。
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最後に受けとめたいことを手短に申しあげましょう。地に平和をもたらすためにお生まれになった救い主について天使は「あなたがたのために」と告げています。この天使の告知に結んでこう申しあげることができます。
私たちにとっての身重になっている者への勅令による辛さと言える〈有無を言わさぬ圧迫とそれによる辛苦の中に〉
私たちにとっての馬小屋での出産とも言えるような〈苦しみに追い打ちをかける貧しさの中に〉
「宿屋には、彼らのいる場所がなかった」という愛のない、まさに〈神のみこころにかなわない生き方をしてしまっている私たちのいる所に〉
そうした所を厭わずに、そうした所にこそ救い主は来てくださいます!
そのキリストによる平和・平安が、クリスマスを祝うみなさんひとりひとりの希望となりますように。
その平安を受けた者――私たちもそうありたいし、事実はそうであります――が、他者のために良い慰め手となっていけますように。そのことによって、地には平和が満たされ、天には神の栄光が輝きますように。
(2025年12月21日)
