今、私たちはキリストがこうお語りになるのを聞きました。
「さあ、立ちなさい。ここから行くのです。」
この時、キリストは弟子たちと最後の晩餐を共にし、『別れの説教』ともいうべき話しをしておられました。その途中でキリストは「さあ、立ちなさい。ここから行くのです」と言われたのです。ところが、この後に続く第15章を読み進めてみると、皆が席を立って外に出かけたという様子は記されておらず、すぐに有名な『ぶどうの木の譬え』が続きます。キリストの『別れの説教』は終わることなく続いているのです。そのことからすると「さあ、立ちなさい。ここから行くのです」と言われたのは――さあ、そろそろ腰を上げて出発しようか、というような意味ではなさそうです。ならばどういう意味であったのか。キリストは『別れの説教』の一つの節目において、弟子たちを遣わすための〈派遣の言葉〉をお語りになったのでした。
礼拝の最後には「祝福」あるいは「祝祷」と呼ばれるものがあります。これを「派遣」と呼んでいる教会もあります。皆さんは礼拝を終えると帰って行くわけですが、それはただ自分の家に帰るというのではなく、神さまからの祝福を携えて遣わされて行くのです。「派遣」という呼び方は、そのような礼拝のさいごに起こっている事柄をよく表していると言えます。
その際、神さまは祝福をもって私たちを送り出してくださいます。ですから「祝福」という呼び方もまた事柄を言い当てています。「派遣」と呼ぼうが「祝福」と呼ぼうが結局は同じことをあらわしているのです。
このことを心にとめようとするとき「祝祷」という呼び方には、誤解を与えかねない面があります。礼拝のさいごに、牧師が礼拝出席者を代表して神さまに祝福を求める祈りをする、というふうに考えてしまいやすいからです。そこで用いられる言葉が「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にありますように」と祝福を求める祈りのようにも聞こえるのですが、これは祝福を告げる言葉です。
この言葉を口にするとき、牧師は祈るときのように手を組むことはせずに会衆に向けて手をあげています。その手のひらは必ず下を向けています。この姿勢は、祈りとは明確に異なることをしていることの表れです。ですから「祝祷」という呼び方をするにしても、そこで起こっていることは祈りではなく、私たちを派遣するための神さまからの祝福であることを銘記したいと思います。
※祈りをするときの姿勢に、手を組むほかに両手を頭の高さぐらいにあげるものがあります。その時の手のひらは必ず上を向けています。それは、相手に「与えてください」と求める姿を表しています。一方、下に向けられた手のひらは、神からの祝福が注がれることを表しています。
20年以上前のことになりますが、東京の吉祥寺にあります聖公会の修道院を会場にして行われた研修会(説教塾のセミナー)に出席したとき、その修道院で行われている朝の礼拝に出席したことがありました。聖公会の礼拝は、カトリックのミサに近いと聞いていましたが、実際に礼拝に出てみると、日本イエス・キリスト教団に所属する教会の礼拝とはいろいろ違うところがあり、聖餐のあずかり方など興味深い体験をしました。
それと共に感心しましたのは、礼拝のさいごにおける祝福でした。礼拝のおわりに牧師(司祭)によって祝福が告げられるのは同じなのですが、私たちと違うのは、祝福の言葉が終わると、それまで着席していた会衆が突然一斉に起立をするのです。すると牧師が「ハレルヤ、主と共に行きましょう」と言う。すると会衆も「ハレルヤ、主の御名によって。アーメン」と応える。そこで礼拝が終わるのです。
更におもしろいのは、牧師が「主と共に行きましょう」というとき、両手を腰の位地に当てるポーズをとる。つまり走る格好をするのです。そして、祭壇の横にある小さな扉にむかって進んで外に出て行ってしまう。その後で姿をみせて挨拶をするというようなことはありませんでした。私はあっけにとられてその様子を見ていたものでした。今、その時のことを思い出してみますと、祝福と派遣の意味をとてもよく表している礼拝であったことを思います。
「さあ、立ちなさい。ここから行くのです」とキリストから語りかけられた時、弟子たちは静かな二階座敷の中で、先生であるキリストと一緒でした。そこは弟子たちにとって安心できる場所でした。しかし、キリストの弟子であるということは、安心できる安全な場所に安住するためのものではありません。偽りに満ちた世にあって悩み苦しんでいる人、病んでいる人、蔑まれている人、悲しんでいる人、孤独な人、等々のもとに神の祝福をもたらすために遣わされて行く。そのためのキリストの弟子だからです。
そのことは私たちも同じです。この礼拝が終わるとそれぞれの家庭に、それぞれの学校に、それぞれの職場に遣わされて行いきます。宣教師が外国に遣わされて行くように、私たちも神の祝福を広めるために遣わされて行くのです。
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さて、そのような派遣に際してキリストが弟子たちに約束をなさいました二つのことを心にとめたいと思います。その一つについてキリストこう語られました。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)
聖霊がキリストの話したすべてのことを思い起こさせてくださるとは、どういうことでしょうか。牧師をしていますとこんな言葉をよく耳にすることがあります。――先生、せっかく聖書のよいお話をしてくださっても、歳のせいか記憶力が弱くなっていてすぐに忘れてしまうのです、と。そうしたことは、ある程度しかたのないことだと思います。私自身、自分で語りました説教を全て覚えているわけではありません。忘れていることもあります。そういう頼りにならない私たちの記憶力のために、聖霊は忘れたことを思い出させてくださるというのでしょうか。そういうこともあるでしょう。辛い時期を過ごしているときに、ふと昔に聞いた牧師の説教の中で語られていた聖句を思い出して励まされることもあるでしょう。そうしたことも聖霊による助けです。しかし、聖霊の助けは単に忘れていたことを思い出させるということにとどまりません。
私たちは礼拝のたびごとにヨハネの福音書から、もうずいぶんとたくさんのキリストの言葉を聞いてきました。そこでこう思うかもしれません。聞くには聞いたが、そのキリストの言葉をきちんと理解できているかと問われれば心もとない……。牧師の説教によってみ言葉の意味はわかった気がするが、実感としてはまだ……。そういうことが私たちには多いのではないでしょうか。キリストの弟子たちもそうでした。そのような私たちに聖霊が助けを与えてくださいます。それによって――ああ、このみ言葉の意味はこういうことだったのか!とわかるようなるのです。
み言葉がわかるとは、ただ聖書の知識が増えるというようなことではありません。たとえば職場で、み言葉がわかったことによって、これまで強い圧迫を感じながら義務感に駆られるようにして行っていたことを、解放された思いで、自由な気持ちで行えるようになったりする。そうしたみ言葉がわかることで生き方が変わるということが、キリストが話したすべてのことを教え、思い起こさせてくださる聖霊の助けによって起こるのです。
弟子たちを派遣するに際しての約束の二つ目のことに移ります。それについてキリストはこうお語りになりました。
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」(27節)
私たちがふつうに考える平安とは、不安とか心配といったことがない落ち着いた心の状態のことを指すことが多いと思います。そのような意味がキリストの言われる「平安」にないわけではありませんが、それが全てというのではありません。ですからキリストは「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」と言われるのです。世が与える平安とは安心させること、場合によっては気休めということもありましょう。
キリストが語られている「平安」は、心の状態よりも重要なことをあらわしています。それを知る手がかりとして、パウロが語っていますことに注目してみましょう。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。(ピリピ人への手紙第4章6~7節)
ここでパウロが言っているのは――思い煩いや不安によって揺れ動いてしまいやすい〈私たちの心の平安〉を神さまが守ってくださるというのではなくて、〈神の平安〉が私たちの心と思いとを守ってくださるということです。
そのことの最もよい実例として、キリストが墓から復活された日の出来事を挙げることができます。キリストが復活された日の夕方、弟子たちは不安と恐れのために戸に鍵をかけた部屋の中に閉じこもっていました。そこに復活されたキリストがおいでになり弟子たちにこう語りかけました。
「平安があなたがたにあるように」(第20章19節)
この時の弟子たちの中にイスカリオテのユダはいませんでした。ユダはキリストを裏切ったことを悔いて自ら命を絶ってしまっていたからです。しかし、キリストを裏切ったのはユダだけではありませんでした。他の弟子たちも最後はキリストを捨てて逃げたのですから。キリストに「あなたのためなら、命も捨てます」とまで言ったペテロも、結局は自分の命を捨てるのではなくてキリストを捨てたのです。
自分を裏切った者に対して裏切られた人が語る言葉というのは、ふつうであれば呪いです。――わたしはあなたがたを愛した。それなのにあなたがたはわたしを裏切った。それならば今度はわたしが、あなたがたを捨てる。あなたがたを呪う。そう言われても仕方のない弟子たちでした。しかし、甦りのキリストは弟子たちを責め、追求するようなことは唯の一言もお語りにならずに「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。このようにキリストが言い得たのは、十字架で苦しみを受けたことを根拠としているからです。
キリストは世の罪を取り除くために、罪がもたらす呪いを人間の身代わりとなって受けるなるために、十字架に磔となって苦しみをお受けになりました。このキリストの苦しみによってこの世と人間は、決して神さまから捨てられることのない、呪われることのないものとされました。神さまとの和解が与えられ、罪の赦しが与えられたのです。ですから「平安があなたがたにあるように」とは、十字架で苦しみを受けてくださったキリストだから語り得る、キリストだけが語り得ることでした。
その〈平安〉とは、キリストが十字架でお受けになった〈滅びへの審きと呪い〉と正反対にあるものでした。そのことをパウロは「すべての理解を超えた神の平安」と言っているのです。その平安が私たちの心と思いを守り、それによって私たちの存在そのものを守るのです。
この後、「安かれ、わが心よ」という歌詞ではじまる讃美歌(新聖歌303番)を歌います。自分の心に向かって安かれ、安心せよと呼びかける歌です。そうすることのできる根拠は、キリストによる平安が私たちの心と思いを守ってくださるからです。この讃美歌を共に口ずさみながら、キリストが約束し、実現してくださいました平安を受けとめて、ここを立ち上がり遣わされてまいりたいと思います。
(2026年3月29日 棕櫚主日の礼拝)
