詩篇第3篇「朝の歌・キリストの歌」

 詩篇第3篇は、そのなかに「私は身を横たえて眠り、また目を覚ます」という言葉があることから『朝の歌』と呼ばれてきました。『朝の歌』と聞くと、清々しい爽やかな歌を思い浮かべる人は多いと思います。朝をうたった歌は歌謡曲でも讃美歌でも、明るい爽やかな調子でうたわれるものがほとんどといってよいでしょう。
 朝のひと時の清々しさは歌の世界だけでなく、ことわざでも「早起きは三文の徳」だとか「早起き鳥はえさに困らぬ」(ヨーロッパのことわざ)と言われるほどです。

 しかし、誰にとっても朝は明るく清々しい時であるとはかぎりません。むしろ、朝、私たちの気分のバロメータが低気圧を指していることはよくあることではないでしょうか。未解決の問題や課題が残ったままで迎える朝、まぶただけでなく心も重いということがあります。辛い事柄や気にさわった事柄のあれやこれやを朝から思い出しては、暗い気持ちになってしまったりすることは珍しいことではありません。

 『朝の歌』と呼ばれるこの詩篇の冒頭には、私たちの用いている聖書では「主よ」と書かれているのですが、ここは原文のヘブライ語の調子を汲みとって翻訳するならば「ああ、主よ」というふうになります。心が弾むような呼びかけではなく、うめくような呼びかけです。この詩篇をうたった詩人が朝、目覚めるときに「ああ、主よ」とうめくようにして神さまを呼び求めている理由についてはこう述べられています。

なんと私の敵が多くなり、
私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
多くの者が私のたましいのことを言っています。
「彼には神の救いがない」と。(1~2節)

 もうお分かりの通り、詩篇第3篇は単なる『朝の歌』ではありません。それは『苦しむ者の朝の歌』と言い得るものです。この苦しむ者の歌を詩人は、苦しんでいる人の姿を想像しながら作ったというのではありません。この詩人自身が正真正銘、実際に苦しんだのです。
 この詩篇の標題のなかには「ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」と書かれてあります。ダビデとはイスラエル王国の王であった人です。そのダビデにはアブサロムという息子がいました。アブサロムはダビデにとって可愛い息子でしたが、頭痛の種でもありました。そのアブサロムはあるとき兄弟を殺して外国に逃亡するという事件を引き起こします。しかし、王であり父であるダビデのはからいによって国に戻ってきます。
 ところが今度は、ダビデに知られぬように、ひそかに民衆を扇動しはじめます。アブサロムは宮殿の門の前に立って、ダビデ王に陳情をしようとやって来る人を見つけると――あんな王のところに行っても無駄だ……と民衆を自分の方へと引きつけ、そうしたことを続けながら時期が熟したのを見計らって謀叛を起こすのです。
 この謀反により、ダビデはかつての家来たちからも泥や石を投げつけられ、卑しめられ、ついに都から逃げ出さなければならない羽目になります。そして、ごくわずかな部下たちと一緒にヨルダン川を渡り、東の土地へと逃れ、そこに身を潜めることになってしまいます。こうした境遇の中で朝を迎えたダビデがうめくようにして神さまに呼びかけているのです。
「主よ、なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。」

 このようなダビデの悲惨な境遇を知ると、気の毒な王としてのダビデに同情したくなるかもしれません。しかし、この王を苦しめていたのはアブサロムの問題だけではありませんでした。東ヨルダンの地に身を潜めていたダビデにとって、どうしても思い出さずにはおれない苦しみがありました。それは、ダビデが身を潜めていた土地からそう遠くないところに、かつてダビデに忠誠を尽くした一人の将軍が戦死した場所があったからです。
 その将軍とはウリヤという人です。将軍といえども戦いに臨む以上、戦死することは起こり得ることです。しかし、ウリアが戦死を遂げるに至ったことには特別な隠された事情がありました。将軍ウリアにはバテ・シェバという名の美しい妻がいましたが、ダビデはこの他人の妻を自分のものにするため、ウリアをわざと激戦地に送り戦死するように謀ったのです。

 この事件と詩篇3篇との間には関係があるということを、古くから聖書学者や説教者たちが注目をしてきました。そうなると、この『苦しむ者の朝の歌』は、善良な人物が不幸にも苦しんでいるというのではないことになります。過去の悪行が現在の不幸をもたらすという因果応報を聖書は認めているわけではありませんが、他人の妻を奪うためにその夫を死に追いやるという罪を犯したダビデにとって、息子アブサロムのしうちによってもたらされた悲惨な境遇は、自らの罪がもたらした罰のように思ったとしても不思議ではありません。

 こうしたダビデの苦しみの事情が見えてくると、ダビデへの同情よりも一つの疑問の方が大きくなってきます。恥ずべき罪を犯し、身から出た錆という一面を持つこのダビデのような人物が「ああ、主よ」と神さまに呼びかけ、「私の神よ、お救いください」と願うことは、あまりにも身勝手な、あつかましいことではないのか、という疑問です。ところが、この詩篇は、あつかましいどころでは終りません。朝の歌は続けてこううたうのです。

しかし 主よ
あなたこそ私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方。
私は声をあげて主を呼び求める。
すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。
私は身を横たえて眠り また目を覚まします。
主が私を支えてくださるから。
私は幾万の民をも恐れない。
彼らが私を取り囲もうとも。(3~6節)

 ダビデは惨めな境遇と自らの犯した恥ずべき罪による呵責にもかかわらず「しかし、主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾」と、神さまが自分の味方であることを述べてはばかりません。ここに至って『苦しむ者の朝の歌』は、『苦しみから解放された者の朝の歌』になっていることが分かります。そして更に、この詩篇は、ほとんど要求がましいと言っても良いほどに力強い、神さまへの信頼に満ちた調子で次のようにうたうのです。

主よ 立ち上がってください。
私の神よ お救いください。
あなたは私のすべての敵の顎を打ち
悪しき者の歯を砕いてくださいます。(7節)

そして、最後には、勝利の歌を思わせるほどの高まりをもってこううたわれます。

救いは主にあります。
あなたの民に あなたの祝福がありますように。(8節)

 この詩篇は、「ああ、主よ」とうめきによる『苦しむ者の歌』として始まりました。それはダビデの置かれていた境遇と、それと無関係とはいえないダビデの犯してきた罪からすれば当然のことであったといえます。
 しかし、そのダビデが『苦しみからの解放の歌』をうたい、更には神さまに向かって「主よ、立ち上がってください」と堂々と自分の願いを述べ、最後には「救いは主にあります」と『勝利の歌』をうたうに至ります。その勝利の歌のなかでダビデは、アブサロムにそそのかされてダビデに泥や石を投げつけた民をあくまでも神の民として受けとめ、この民のために神さまに向けて「あなたの民に あなたの祝福がありますように」と祝福を祈ることすらしています。そのようなことがどうしてダビデに可能だったのでしょうか? ダビデにいったい何が起こっていたのでしょうか。

 他人の妻を奪うというダビデの犯した罪と直接に深い関係のある詩篇に第51篇があります。そこでダビデはこう述べています。

神よ、私を憐れんでください。  
あなたの恵みにしたがって。
私の背きの罪をぬぐい去ってください。
あなたの豊かなあわれみによって。(1節)

詩篇第51篇に見えてくるダビデの姿は、ただただ、ひたすら神の恵み、神の豊かなあわれみにとりすがる者としての姿です。このことこそはダビデが『苦しむ者の歌』からはじまって『勝利の歌』をうたうことができた唯一つの理由でありました。

 さて、ダビデが「あなた(神)の恵み」「あなた(神)の豊かなあわれみ」と言っていたものを私たちは別の言葉で、いや、より正しくは、ひとりの名前で言いあらわすことができます。その名前とはイエス・キリストです。
 神さまが世の罪を取り除くためにイエス・キリストを世に遣わし、恵み豊かなあわれみをあらわしてくださったという新約聖書のメッセージを旧約聖書の時代に生きたダビデは知ることがありませんでした。しかしダビデはまさにイエス・キリストによって与えられる救いである罪の赦し、神との和解を先取りするようにして、神の恵み豊かなあわれみにとりすがったのでした。それこそはダビデのような恥ずべき罪の過去をもった人が、はばかることなく大胆に神さまに助けを求め、自分の願いを訴えることができた理由です。

 このような第51篇の詩篇と深い関係を持つ詩篇第3篇の隠されたテーマは、イエス・キリストによる救いであるということができます。ですからこの詩篇は『朝の歌』と呼ばれるだけでなく『キリストの詩篇』と呼ばれるようにもなったのです。この『朝の歌・キリストの詩篇』を、私たちにとって毎日の朝の歌とすることができたら、それはどんなに幸いなことでしょう。

 私たちにとっても朝、「ああ」とうめくことがあるでしょう。また「幾万の民……彼らが私を取り囲もうとも」と書かれているように、私たちもまた一つの問題だけではなくて、あの事、この事と多くの問題に取り囲まれることがあります。
 古代の戦(いくさ)から近代の戦争に至るまで敵に取り囲まれ、包囲されるということは負けを意味します。また包囲されてしまった者を救出することは極めて困難なことでもありました。
 しかし詩篇は、幾万の民に包囲されても「恐れない」とうたいます。常識から言えば強がりもはなはだしいということになりますが、『キリストの詩篇』は「恐れない」とうたいながら、困難な問題に包囲されている人の傍らに立っていてくださるキリストを指し示しているのです。
 十字架にかかられ復活されたキリストは、人間にとって本来、何ものにもまして深刻かつ危険な包囲網である罪に苦しむ者の傍らに友として来てくださいます。そのキリストは、死の包囲網、生活上のさまざまな試練という包囲網のなかで「ああ、主よ」とうめく者の声を聴きとってくださいます。そして人間が踏み込むことができない包囲網を突破して、呼び求める者を支えてくださることを詩篇は証言しているのです。

 戦においては勝者の慈悲というものがあります。既に勝敗が決したというとき、心ある勝者は、戦いが続いている場合でも敵に情けをかけ、敵の救出にすら手を貸します。
 キリストを救い主として生きる者は、勝者の慈悲に生きる者とされます。自分で勝ちとった勝利のゆえにというのではありません。罪と死に打ち勝たれたキリストの勝利によって、恥ずべき罪過と今なお繰り返してしまう過ちの一切の罪が赦され、神との間に和解が与えられているという平安が私どもを勝者の生き方へと押し出してくれるのです。それゆえに、自分に苦しみを与えてくる相手に対してすらも「あなたの上に、神の祝福がありますように」と勝利の歌をもって敵のために祈る者に、キリストは私どもをつくりかえてくださるのです。

祈 り

父なる神さま
あなたの恵みと豊かなあわれみそのものであるキリストを救い主として受け入れ、
喜び、信じる恵みを私どもに与え、それによって、朝の良き目覚めを与えてください。
あなたの私どもに対するめぐみとあわれみを朝の歌としてうたう信仰の心を与えてください。
さまざまな困難によって心が包囲され、不安と恐れのなかにある者のために、また私ども自身のために祈ります。
病によって包囲されている者を
死の恐れという包囲のなかにある者を
人間関係のなかで引き起こされる誤解や疑念、不信に取り囲まれている者を
そうしたひとりひとりをどうぞ助け、導いてください。
そのために、かのダビデに与えられた恵みを、 
キリストによる恵みをお与えください。
主の御名によって。アーメン。

2026年6月7日 三位一体後主日礼拝説教

参照  宍戸達 宍戸好子著訳 「み言葉の調べⅡ 詩篇講解」 新教出版社