詩篇第4篇「夕べの歌・平安のうちに身を横たえ」

平安のうちに私は身を横たえ 
すぐ眠りにつきます。
(9節前半)

 ひとりの人が今まさに、身を横たえて眠りにつこうとしています。この眠りの時間というものを大雑把にとらえると、それは人生の三分の一を占めているといえます。また眠っている間というのは当然のことながら、仕事をしたり、勉強をしたりという活動を一切していません。それなので――人生のうちの三分の一を眠りに費やしてしまっているはもったいないのではないか、だから眠りの時間は短いほど良い……という考えもあるでしょう。

 しかし、そういう考えは、はたして正しいのでしょうか。働いたり遊んだり、喜んだり悲しんだり、成功したり失敗したりする、そういう目を覚ましている三分の二の人生と同じくらい、眠っている三分の一の人生もまた大切といえるのではないでしょうか。少なくとも今日、人生の三分の二をよりよく生きるために人生三分の一の眠りが必要であるということは社会が認めるところとなっています。それゆえに、睡眠を妨げてしまう睡眠障害が病として認知されるようにもなってきています。ですから「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます」とは、人間にとってなくてはならない眠りにつくための祈りともいえるのです。

 さて、一口に「眠り」と言ってもいろいろな眠りがあります。この詩篇に語られている眠りは、私たちが普段、ともすると陥りがちな次のような眠りとは随分違っています。

  • 嫌なことや苦しいことで満ちている社会、現実から逃げ出そうとする〝逃避の眠り〟
  • 不愉快なことを忘れてしまおうとする〝忘却の眠り〟
  • 心がくじけてしまった果ての〝ふてくされた眠り〟

 このような後ろ向きで消極的な眠りとは全く異なる眠りがあることを詩篇は示してくれています。この詩篇の眠りは、安心して自分を明け渡し、身も心も委ねきることのできる大きな信頼と結びついています。それによって次のような眠りとなって行きます。

  • 「ああ私は駄目だ、これでは駄目だ……」と否定する気持ちが静まり、「これで良い、だいじょうぶ」という肯定する思いが再生される眠り。
  • 何かから遠ざかり逃げようとする気持ちではなく、あるものに近づこうとする、すなわち、今まさに眠りにつこうとしている自分を受けとめ、守ってくださるお方に近づくことを願う眠り。

 人生の三分の一を占める眠りの質がつくりかえられる根拠として詩篇が示してくれている何よりも大切なことは、神さまがおられるという事実です。この神さまに背を向けたまま眠ってしまうのではなく、私のことを忘れることなく、いつでも覚えてくださる神さまの腕の中に帰ろうと願いながら眠りにつくことが、安らぎの中で眠るための一歩となります。

 それはこう言い換えてもよいでしょう。日光東照宮の建物の外壁には三匹のサルが彫り刻まれていて、それは「見ざる、言わざる、聞かざる」と呼ばれています。この詩篇の眠りは〈見ない、言わない、聞かない〉ということのためにではなく、ただ一つのことだけを〈知り、考え、しっかりと自分に言い聞かせる〉ための眠りとなるのです。そのただ一つのことについて詩篇はこう語っています。

主よ ただあなただけが、
安らかに 私を住まわせてくださいます。
(9節後半)

 どんな外敵からも守ってくれる強い壁、激しい雨風を防いでくれる屋根、住む者を堅く支えてくれる床。神さまをそのような住まいにたとえ、その神さまの中に住むことがゆるされて眠りにつき、人生の三分の一を過ごせたなら、それは何と平安なことでしょう! 
 このような平安の中にあるのならば、ぐっすりと眠り込む「爆睡」ということにならなくとも、守られているという安心をしみじみと感じながら身を横たえることになるのではないかとも思います。こんな話を聞いたことがあります。

 入院を切望していなから病室が空かないために入院できなかった人が、ようやく入院することができた日の翌朝。ナースから「よく眠れましたか」と聞かれると、その人は「いいえ、一晩中、目を覚ましていました。しかし安心していられました」と答えたといいます。その人にとって、病院にいられるということが安堵感を生んでいたのです。神さまを住まいとすることから与えられる安堵は、どんな病院にも勝るもの。そのことを希望としながら祈るのです。

平安のうちに私は身を横たえ
すぐに眠りにつきます。
主よ、ただあなたたけが 
安らかに 私を住まわせてくださいます。

 ところで「平安のうちに私は身を横たえて」という言葉は、この詩篇の最後にいたって初めて出てきているのであって、最初はこのような言葉によって始められています。

私が呼ぶとき 答えてください。
わたしの義なる神。
追いつめられたとき
あなたは私を解き放ってくださいました。
私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。(1節)

 このように最初は不安とやるせない叫びともいえる言葉からこの詩篇は始まっているのです。ですから、最後に出てくる好ましい安らぎは、この詩篇の作者自身の持ち前の落ち着いた精神力によるものだとか、眠るための特別な工夫と方法によるものではありませんし、ましてや睡眠薬によってというのでもありません。そうではなく、平安のうちに身を横たえるということは、神さまからの恵みの贈物であり、「私をあわれみ 私の祈りを聞いてください」という祈りを神さまが聞いてくださった結果によるものです。
 もしそうでなければこの詩篇の作者は、不安と悩みを抱えた重い心に押し潰されそうな夜を過ごし続けたことでしょう。しかし、今や、神の恵みによって大いなる安らぎ、平和の中で眠りにつこうとしているのです。そのことは、大げさに聞こえるかもしれませんが、神さまがなさってくださった奇跡といってよいものです。

 ただし、その安らぎについて勘違いしないように注意したいことがあります。それは、この安らぎは、悩みがきれいさっぱりとなくなったからとか、不安や恐れの原因となっている問題が全て解決したことによるものではないということです。相変わらず悩みの中にあり、不安と恐れの元凶は残されたままで何も変わっていない、その中で安らぎが与えられ「平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます」と言っているのです。このことは精神の鍛練だとか、精神医療によって可能になるようなことではなく、まさに神さまの恵みによる奇跡と言うべきでしょう。

 苦しみの中でなお安らぎを得るということは神さまから与えられる大いなる助けです。その助けを私たちはどのように求めたらよいのでしょうか。
 私たちが悩み、不安、恐れの中にあるとき、心にささやきかけてくる言葉について詩篇は「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」(6節)と記しています。
――神は本当にいるのか。本当にいるのなら、どうして私たちに良い事を見せさてくださらないのか…… 
――神は所詮、人間が何かにすがりたいという、人間の願望が生み出したものに過ぎないのではないか…… 
――神は、いると思う人にとってはおり、いないと思う人にとってはいない。結局は心の問題なのではないか…… 
そうした思いから多くの人は「だれがわれわれに良い目をみさせてくれるのか」と神の存在を疑問視しつつ問うのです。

 そういう問いに反論できるような信仰と神についての知識、聖書の知識を身につけることが、安らぎを得るためには必要だというのではありません。
 神さまは生きておられます。そして私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。そうであるならば、その神さまに向かって呼びかけるのです。この詩篇のように。

主よ どうか 
あなたの御顔の光を
私たちの上に照らしてください。
あなたは喜びを私の心に下さいます。
それは、彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。(6~7節)

 梅雨に入りまして、曇り空や雨の日が多くなってきました。雨雲の日が続きますと、何となく私たちの心も暗くなりやすいものです。それぐらいに私たちの心は普段から、何気なくも、太陽の光の明るさの恩恵を受けていることを思います。だから曇りの日が続くと晴れの天気を望むようになる。それはただ洗濯物のためばかりではなく、心が太陽の光をもとめているからです。それと同じように、私たちの魂は神さまの御顔の光を求めているのです。
 心情においては「神など本当にいるのか」と問い続けていても、またそのような時こそ、魂は強く神を求めています。その魂の求めを大切に扱い、自分の魂の訴えを神さまに向けての祈りにしてあげるのです。「主よ どうか あなたの御顔の光を照らしてください」と。

 神さまの御顔の光に照らされるとは具体的には、あるひとりのお方の姿を信仰の目をもって見るようにして想うことです。そのお方とはイエス・キリストのことです。
 例えば、福音書を通して知り、想うことのできるキリストの姿の一つに、病者に対して慈しみ深くあられたキリストの姿があります。キリストは実に多くの病人を癒されました。その中には、生まれつき目が見えない人、12年間ものあいだ止まらない出血に悩み苦しんだ人、ひきつけを起こして口から泡を吹いて転げまわる人といった重病人、治る見込みのない患者も多くありました。そうした病者のことを世間の人々は、神の祝福から漏れた汚れた者として遠ざけました。しかし、キリストはそうした病者を退けることなくお癒しになりました。そうすることでキリストは、天の父である神さまは病める人を大切に思い、慈しんでくださっているという事実を示されたのでした。神さまによってかえりみられない病者はいないことを証明するために、病者を慈しみ癒されたキリストの姿は、神さまの御顔の光そのものといえるのです。

主よ どうか 
あなたの御顔の光を
私たちの上に照らしてください。
平安のうちに私は身を横たえ 
すぐ眠りにつきます。
主よ、ただあなたたけが 
安らかに 私を住まわせてくださいます。

 この眠りのための祈りは、毎晩、ベッドにつくときの祈りであるばかりでなく、これはそのまま、死を迎える床につくときの祈りともなります。
 自分自身の死についても、家族の死についても、そこで誰もが何よりも願うことは一つ、安らかな死を迎えたいということでしょう。その安らかな死の意味を、痛みも苦しみもなく、そしてできることなら家族や親しい者たちに見守られる中で、眠るように息を引き取るような死と考えるならば、そういう死を迎えることは誰にでもゆるされているわけではないことをわきまえていなければなりません。現実は、痛みと苦しみの中で息を引き取る人がいますし、家族の面会すらも制限する管理された集中治療室で、孤独に最後を迎えなければならない人もいます。誰も予想していない旅客機の墜落によるような事故死ということもあります。
 そうした厳しい現実を受けとめるとき、その厳しさを乗り越えさせてくれる大きな希望を詩篇第4篇に見出だせることは幸いなことです。神さまは御顔の光によって死の床にある者を照らし、不安や恐れ、あらゆる苦しみの中にある者に平安を与えてくださいます。そして「神さまそのものに住まう」とたとえるほどの安らぎの中においてくださることをこの詩篇はうたっているのですから。  
 たとえ痛みや苦しみがあろうともその只中で、神さまは恵みの奇跡によって、私たちが安らかに身を横たえることができるようにしてくださるのです。

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