待降節礼拝説教
うら若き乙女マリアに対して天使ガブリエルが、救い主となる子の身ごもりを告げ、またマリアがそれを受け入れた出来事は『受胎告知』と呼ばれて、クリスマス物語の中でも美しい場面として知られています。
この受胎告知の出来事を聖書は、人類の歴史上に現れた最高度に聖なる時として記しています。それに比べれば『聖夜』と呼ばれる馬小屋でのキリスト誕生についての聖書の記述は実に控えめです。 『受胎告知』があればこそ『聖夜』は起こるべきこととして起こりました。そういう意味で『受胎告知』は、待降節(アドヴェント)に想起されるべき出来事の頂点にあると言っても過言ではありません。
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「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 この不思議なあいさつを聞いたとき、マリアは語りかけてきた相手が御使いすなわち天使であることを分っていたのでしょうか。たぶん分っていなかったのではないでしょうか。ですから聖書はマリアが天使の姿を見て驚いたというようなことは何一つ記していません。聖書が記していることは、語りかけられた「ことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」ということです。
このときマリアが聞いたことばは、単なるあいさつではありません。一つの通知です。例えば、資格試験や入学試験に合格をすると「おめでとうございます。あなたは○○試験に合格しました」という合格通知が届きます。マリアが聞いたあいさつも、これとよく似ています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 このことばにマリアはひどく戸惑ったのですが、その戸惑いを更に大きくすることになります通知の内容がマリアに告げられます。
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
以上の通知は要約すると、次の四つの事柄となります。
一、マリアは神から恵みをいただいていること。
二、マリアはみごもって男の子を産むことになること。
三、その子にイエスという名前をつけるべきこと。
四、生まれてくる子は、いと高き者の子、すなわち神の子と呼ばれ、世界を支配する王となり、その支配は永遠に続くということ。
このことを聞いたマリアは言いました。
「どうして、そのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」 こう言いながらマリアが戸惑いを深めているのは、処女である自分に子どもが生まれるはずがないということも勿論含まれています。しかし、それだけではありません。起こりえない出産が起こりうるとして、自分のお腹から生まれてくる子どもが神の子と呼ばれ、世界を支配する王になるというようなことがどうして起こりえようか。それこそがマリアの戸惑いの最たるものでありました。このマリアの戸惑いを不信感や疑念と混同しないようにしましょう。
マリアは自分に告げられたことばを、はじめて聞く、予想もしない内容を告げるそのことばを神のことばとして受けとめています。まさにそのことのゆえに、マリアは戸惑わずにはおれなかったのでした。もしマリアが告げられた事柄に対して不信感や疑念、あるいは反感を抱いたのであれば戸惑うことはなかったでしょう。
神のことばは、人間の理性や思想とは質的に異なる「異質なもの」であると言った人がいます。聖霊による身ごもりによって、ひとりの女から神の子が生まれ、その子が救い主となり、世界を治める王となるといったことは、人間の理性からすれば受け入れ難い、異質なメッセージです。しかし、それをマリアは戸惑いながらも受けとめているのです。そのマリアを励ますかのように天からのことばが続きます。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう6か月です。神にとって不可能なことは何もありません」
教会共同の信仰を告白する『使徒信条』の第一条項は神について「我は、天地の造り主/全能の父なる神を信ず」と言いあらわしています。使徒信条が言う神さまの「全能」とマリアが聞いた「神にとって不可能なことは何もない」とは同じことをあらわしていると言ってよいでしょう。このマリアが聞いたことばのギリシャ語原文を直訳風に訳すと「神にとっては、語られた言葉が不可能ということにはならない」となります。神の全能とは、神さまから発せられた〈神のことば〉は必ず神さまが成し遂げるという意味で全能なのです。全能だから何でもできる、不可能なことは何ひとつないというような話ではなく、神のことばが空しくなることのないための全能です。このような神の全能と結びついている〈神のことば〉をマリアは受けとめました。それゆえに応えて言ったのです。
「わたしは主のはしためです。どうぞ〈あなたのおことば〉どおり、この身になりますように。」
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聖書が伝えてくれている『受胎告知』には、天使のことも含めて不思議なことが多々記されています。その中で最も不思議なことはマリアが自分の聞いた事柄について、それを神さまのおことばどおり、この身になりますようにと受け入れたことです。このことは奇跡と言ってもよいことです。『受胎告知』が人類の歴史上に現れた最高度に聖なる時であり、待降節(アドヴェント)に想起されるべき出来事の頂点にあると言える理由は、この奇跡的ともいえるマリアの信従にあります。
このマリアの信従について、神さまは謙遜なマリアをお選びになり、選ばれたマリアは持ち前の敬虔な信仰によって神のことばを信じて従ったと考えてしまうならば、マリアを誤解してしまうことになります。そうなれば、この『受胎告知』の出来事は「聖なる時」とは言えなくなりますし、この聖書箇所は福音ではなく律法になってしまうでしょう。
確かにマリアは神に選ばれた女性です。その選びはアブラハムやモーセを超え出るほどの祝福の担い手となるためのものでした。しかし、その選びは、マリアその人になにがしかの見どころがあったから、他の者にはない優れたところがあったからというのではありません。マリアに対する秘められた神さまの選びに関して聖書に見出だしうるものがあるとすれば、それはマリア自身が言っています「私は主のはしためです」ということだけです。神さまは、はしためすなわち身分の低い女に目をとめられ、お選びになったのです。
では、どうしてマリアは「おことばどおり、この身になりますように」と言うことができたのか。それを知るために、マリアに告げられたことばをもう一度、思い起してみましょう。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」
告げられたことばが示しているようにマリアは神さまからの恵みを得ていました。その恵みによってマリアは「あなた(神さま)のおことばどおり、この身になりますように」と神のことばによる約束を受けとめることができたのです。
こう申しあげたからといって、マリアは自分の意思を働かせることなく操り人形のようになっていたというのではありません。マリアの信従には、信じて従おうという決断がありました。その決断が実際にできるようになるためには神さまからの恵みが必要でした。神の恵みは、主なる神さまとともに生き、働くための自由をその人に満たします。この自由が奇跡をもたらします。マリアは自由に満たされて言ったのでした。「あなたのおことばどおり、この身になりますように!」
『受胎告知』があればこそ『聖夜』は起こるべきこととして起こりました。その『聖夜』の前提となる『受胎告知』の出来事は、神の恵みがひとりの小さな乙女を包み覆う聖なる時となりました。聖書が伝えている受胎告知の出来事は、この世界とすべての人を救うために神さまのなさった救済行為にほかなりません。ですから、私たちに求められ、問われていることは、受胎告知の出来事を美しい物語としてだけでなく、世を救い、私たちを救うために、神さまがなさったこととしてこれを信じるという一点にかかっています。
待降節(アドヴェント)の頂点ともいうべきこの物語を想起しています皆さまのうえに、迎えます降誕祭(クリスマス)による慰めが豊かにございますように!
(2025年11月30日)
