十字架によるみ苦しみが刻一刻と迫ってきている中で、キリストは弟子たちにむけて『別れの説教』ともいうべき言葉をお語りになりました。後に残していく弟子たちを慮り、励ますために語られた説教ではありましたが、その時の弟子たちにとっては理解することの困難な話しでした。そのため弟子たちはキリストの説教についていけず、何度も的外れな質問を繰り返してしまいます。
しかし、それでも弟子たちはキリストの語る言葉を一言も聞き漏らすまいと、真剣に耳を傾けていたのではないかと思います。そんな弟子たちの耳にストレートに響いてきた言葉がありました。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
このときの弟子たちは、キリストが自分たちを残して去って行こうとしていることを察し始め、心を騒がせていました。――イエスさまは、どこか遠いところに行ってしまわれるようだ。そうなったら私たちはどうしたらよいのか…… そんなふうに不安を募らせていた弟子たちの心に、ようやくホットする言葉が響いてきたのです。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
この慰めと励ましの響きを湛えているキリストの言葉は、ヨハネの福音書だけが記しているものです。この福音書が書かれた西暦90年代、教会は二重の意味で厳しい迫害を受けていました。一つはよく知られているローマ帝国による迫害です。もう一つはユダヤ人クリスチャンに対するユダヤ人による迫害でした。
ナザレの大工の息子イエス。神を冒涜したことで罪に定められ十字架によって処刑されたイエス。弟子たちによって言い広められているところによると墓から復活したイエス。そのイエスを救い主として信じる者は、ユダヤ人の聖職者たちから異端者とされました。そして神を礼拝するための会堂(シナゴーク)から追放されたのです。それは同族であるユダヤ人から村八分にされたのに等しいことでした。
こうして当時のクリスチャンは捨てられた孤児のような立場に追いやられていました。殊にユダヤ人クリスチャンは、イエス・キリストについての信仰の故に、ユダヤ人社会からも捨てられるという二重の苦しみを受けていたのです。そうした信者に対して教会は、キリストの弟子たちから伝え聞いていたキリストの言葉を何度も語ってきたに違いないのです。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
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では「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」という約束は、どのようにして実現されるのか。それについてキリストは「あなたがたのところに戻って来ます」と言われています。
あなたがたのところに戻ってくるということの意味について考えるとき、いま聴いているキリストの言葉が聖霊を与える約束という文脈の中にあることを忘れるわけにはいきません。キリストは弟子たちにこう約束なさるのです。
「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(16節)
「助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)
キリストと並ぶもう一人の助け主である聖霊が遣わされてくることにより弟子たちは、キリストと離れてはいても、キリストがともにいてくださるときと同じ助けを受けることができるようになる。それがキリストの語られた「あなたがたのところに戻って来ます」ということの意味であったといえるでしょう。
クリスチャンの信仰というのは、単に信仰の対象としてキリストを信じるというのとは違います。ですから、これまで仏教や神道の信仰に生きてきた人が、その拝む対象を、仏や神道の神からキリストに変えただけでは、クリスチャンの信仰にはならないのです。
ならば、クリスチャンの信仰とはどういうものなのか。今朝のみ言葉との関係で申しあげると、キリストが約束された「あなたがたのところに戻って来ます」ということが暗示している聖霊による助けを受けることで、私たちはキリストを信じることができるようになり、信仰者として生きることができるようになるということです。
キリストがお語りになったすべてのことを思い起こさせてくださる聖霊の助けは、「あなたがたのところに戻って来ます」と語られたキリストに出会うと言ってもよいほどの体験をもたらします。肉眼で見えるわけでもないキリストとの出会いは、どのようにして証明できるのか。それはキリストとの出合いによって、私たちのものの見方や受けとめ方が変るということによってです。
たとえば、こんなことを考えてくださるとよいでしょう。街を歩いているときに、有名なスポーツの選手が歩いているのを見たとします。そうしたら、家に帰って家族に「有名な〇〇選手を見た」という話をするでしょう。それを大げさに「私は〇〇選手と出会った」と言ったりするかもしれません。しかし、そのことによって、その人自身が何か感化を受け、生き方に変化が起こるかと言えば、それはほとんどない場合が多いでしょう。
一方、実際に肉眼で見ることがなくても、たとえばある科学者の書いた書物をじっくりと読み、その科学者のものの見方や考え方に感化を受け、その人の生き方が変えられるというようなことが起こることがあります。そのような場合、その人は書物を通して、その科学者と出会ったと言いうるでしょう。そして、ほんとうの出会いとはそういう変化を引き起こすものです。
私たちがキリストと出会うということは、聖書の言葉を聴くことから始まります。聖書の言葉を聴く私たちに聖霊が助けを与えてくださることで、キリストのお語りになった言葉の意味を悟り、その言葉を〈私への語りかけ〉としてを聴くことができるようになるのです。そのようにしてなされるキリストとの出会いの中で、私たちはずいぶんとものの見方や受けとめ方が変えられてきたのではないでしょうか。
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キリストご自身といってもよい聖霊が、キリストの弟子である私どもクリスチャンに遣わされてくることによって更に大きな慰めが与えられます。そのことについて語られたキリストの言葉が19節にこう記されていま
「わたしが生き、あなた方も生きることになるからです」(新改訳2017)
「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」(協会共同訳)
これはマルティン・ルターが大変好んだみ言葉であったと言われています。ルターは、信者の最後を看取る時、しばしばこの言葉を語り聞かせたようです。ルターはこの言葉を武器にして、臨終の看取りをしたとまで言われています。
このキリストの言葉は、私たちが生きることのできる根拠を、私たちの側においていません。「生きることになる」という言い方をする場合、普通は「私は健康なので、生きることになる」とか「私はまだまだ若いので、生きることになる」といったうふうになるでしょう。それに対して、自分が健康だから、自分が若いから、生きることができるだろうという、そうこととは全く異なることをキリストはおっしゃるのです。
「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」
十字架で死なれ、墓から甦られたキリスト。
それによって、罪と死に打ち勝ってくださったキリスト。
このキリストが生きるので、私たちは生きる。
このキリストは永遠に変わることはありません。
このキリストにつながる者は、それゆえに永遠に生きる、キリストと共に。
こうして「あなたがたを孤児とはしません」というキリストの約束は果たされるのです。
以上の福音を受けとめたうえで、私たちが捨てられた孤児のようになるかもしれない場面とそこにおける救いについて考えてみましょう。そのために、ある書物からの引用を紹介します。
誰かが死ぬとき、家で、家族や友人に囲まれて死ぬことは滅多にありません。多くは病院の病室、それも集中治療室で死を迎えるようになりました。そこで息を引き取ると、遺体は霊安室に移されます。そうした対応がとられるようになっていますから、家族や友人たちは、もはや何もすることができません。何もできないのは身内だけではありません、医師も何もすることができないのです。こうして多くの人々は、誰かの見守りを受けながら死を迎えるというのではなく、どこかの部屋で、一人で孤独に死んでいきます。
(J・モルトマン著「終わりの中に、始まりが」から)
2003年に書かれたこの本に書かれているヨーロッパの状況と同じようなことが、新型コロナのパンデミックによるコロナ禍の最中、日本にも起こっていたことを思います。そして、コロナ禍が収束してもう数年経った今日においても、重篤の患者の置かれる環境は、完全には「コロナ前」に戻っていないことを思います。大地震を機に、建物の耐震基準が見直されるように「コロナ後」、医療に関する管理の基準や考え方が変化しているのだろうと思います。そのため、率直に言って病床訪問が「コロナ前」よりもやりにくくなりました。
大阪の教会におりましたときに、自宅で突然倒れた教会員が入院した救命センターに駆けつけ、人工呼吸器をつけた患者の枕元で、家族とともに患者に呼びかけ、また神さまに助けを祈り求めたことがありました。そうしたことが、今は許されなくなっているのかもしれません。患者の病状によっては面会が制限されることは以前からありましたが、その制限の基準が厳しくなり家族ですらも面会の制限を受ける。その結果として、患者が孤独になる可能性が大きくなってきているように思われます。
そうした状況の中で、倒れて救急車で病院に運ばれたその時が家族や友人たちとの別れの時となり、親しい人たちとの面会も遮断してしまう部屋の中で孤独に最後の時を迎えることになるかもしれない。そうした危機の中に置かれたとき、患者本人は何を助けとしたらよいのか。患者の家族や友人たちは、患者のために何をすることができるのか。そうした問いと課題に対する一つの答えを今朝の聖書に見出せることは幸いなことです。
聖書は、如何なる状況によっても、患者を訪問することについて制限を受けることのない方がいることを伝えてくれています。そのお方は、患者にこう語りかけてくださいます。
「わたしは、あなたを孤児とはしません。」
「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」
こう語りかけてくださるキリストが共にいてくださることを妨げるものはありません。このことは、自分自身が患者となった時のことを考えるとき、大きな安堵と喜びであります。
そして、患者の側にいてあげられないときにでも諦めることなく努めるべきことは、患者と共にいてくださっているキリストのことを患者が分かり、それを実感できるように、それによって平安が与えられるよう、聖霊の助けを願い求め祈ることです。このような願い求めをすることは、キリストの弟子とされている、祝福の担い手としての大切な務めであることを忘れないようにしたいと思います。
(2026年3月22日 受難節の礼拝)
