2026年7月主日礼拝説教
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
この言葉を受けとめる際に重要なことは、語られている内容に勝って、誰によって語られているのかということです。心の貧しい人が天の御国の祝福に与るという約束は、神の独り子であるイエス・キリストの口を通して語られる時にのみ、真実のものといえるからです。
キリストの語られた「心の貧しい者は幸いです」ということは、これを直に聞いていた弟子たちには驚きであったことでしょうが、私たちにとっては驚きというよりは戸惑いが大きいといえるのではないでしょうか。というのも私たちは、たとえば「経済的には貧しくても、心が豊かな人は幸いです」という具合に考えるのが普通だからです。
「心が貧しい」ことと「幸い」ということが結びつかないことは確かなことです。これを――心が貧しいということは決して悪いことではない。己の卑小さを悟ることのできた人の謙遜をこの言葉は表しているのだから……というふうに安易に考えてしまうことは、この聖句を損なうことになりかねません。ここに用いられている「貧しい」というギリシャ語原文は、自分の力ではどうすることもできない徹底した貧しさを意味することからも「心が貧しい者」とは、後に出てきます「悲しむ者」「義のために迫害されている者」と同じように、自分ではどうすることもできない辛さの中にいる人であることを知るべきです。
さて、それならば「心の貧しい人」とは、具体的にはどういう人のことを言うのでしょうか。この聖句に用いられている「心」と翻訳されているギリシャ語原文は「霊」という言葉です。しかし「霊において貧しい人」と言い換えてみても、具体的にどういう人を言うのか相変わらず分からないままです。
「心の貧しい者は幸いです」というキリストの言葉を紐解いていく重要な手がかりとなるのは、その後に続いている「天の御国はその人たちのものだからです」という言葉です。「心の貧しい者は幸いです」があまりにもインパクトが強いので、その後に続く言葉への注意力が散漫になりかねないのですが、3節はそもそも、天の御国の祝福に与る幸いについて、それを約束している言葉なのです。
キリストが天の御国の祝福に与る幸いについて語っているのは、この3節だけではありません。マタイの福音書にはキリストが神の国の福音すなわち天の御国の祝福について語っている言葉が幾つもあります。その中から3節を理解するうえで重要なヒントとなるキリストの言葉を聴くことにしましょう。
そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れてきた人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。(マタイの福音書第19章13~15節)
弟子たちが子どもを連れてきた人たちを叱った理由は、当時のユダヤ人の考え方が弟子たちにも染みついていたからだといえます。幼い子どもは文字を読めないので聖書(律法)を読み学ぶことができません。そのため神の掟に従った自律した生き方をすることができないという理由で、子どもは霊において貧しい者であり、宗教的に無価値な存在と考えられていました。そういう貧しい者の相手をしている暇はイエスさまにはないと弟子たちは考えたのです。しかし、そのような子どもたちを指してキリストは言われました。「天の御国はこのような者たちのものなのです。」
ユダヤ人の間では心の貧しい人・霊において貧しい人といえば、それは幼い子どもだけでなく、聖書を読むことができず、神の掟を理解することのできない、そういう面において知的なハンディを負っている人や無学な人をも意味していました。ですから、教育を受けていない田舎の人たちのことを「心の貧しい人」と馬鹿にすることも珍しいことではありませんでした。そうした考え方を覆すようにしてキリストは言われたのです。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
このことに関連して一つのエピソードを紹介しましょう。あるユダヤ人の父親が自分の子どもを会堂に連れて行く決心をしてそれを実行したときの出来事です。その子どもは、もう字を読むことができるほどに成長していて、普通だったら聖書の学びを始めていてもおかしくない年齢に達していましたが、文字を文字として識別することができず、全く字を読むことができませんでした。
そのような少年が父親に連れられてきた会堂で、集会の最も厳かな瞬間に、突然、持っていた牧笛を力いっぱい吹き始めたのです。文字を読むことができない少年は、その少年なりに神さまを讃美しようとしてそうしたのでした。
この会堂で集会を司っていた聖職者(ラビ)は、少年を追い出そうとはしませんでした。世間の人たちが言う心の貧しさ、霊の貧しさを持って生きているこの少年が牧笛を吹いているその姿に、生きておられる聖なる神さまに向き合っている純粋さを感じとったからです。
神さまは決して学校の成績証明書や知的能力によって人を評価することはなさいません。ですから「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」というこのキリストの言葉は、その言葉の通りに理解して受けとめて良いし、受けとめるべきものでありました。このキリストの言葉をパウロも文字通りに受けとめていたに違いありません。ですからパウロはコリント人への手紙の中でこう述べています。
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(コリント人への手紙第一第1章26~28節)
字の読めない、それによる知的な弱さを持った心の貧しい、霊において貧しいとされていた子どもたち、また子どものような人たちについてキリストは一度ならず、そうした人たちを軽んじてはならないと言われ、また警告の言葉を口にされてもいます。
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイの福音書第18章10節)
私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。(マタイの福音書第18章6節)
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心の貧しさ・霊の貧しさについては、今まで見てきたような面とは異なるもう一つの側面があります。それは、人を愛し、神を愛して生きる生活からかけ離れた生活をしてしまっている状態です。そのような状態で生きてしまっている人たちの代表として聖書に登場してくるのが取税人、遊女、異邦人です。
取税人と遊女は、神を信じて生きるユダヤ人でありながら神の掟を守ろうともせずに金儲けに走り、また自堕落な生活に溺れていました。
ユダヤ人から見れば神を知らない外国人である異邦人は、神を信じず、それゆえに神の掟を守ることのできない汚れた存在とされていました。
これらの人たちもまた心の貧しい、霊において貧しい人たちであり、天の祝福を受ける資格のない人たちとされていました。しかし、こうした人たちについても、キリストは天の御国の祝福に与る幸いを語ってやみませんでした。ですからこうお語りにもなっているのです。
まことに、あなた方に言います。取税人や遊女たちが、あなたがたよりも先に神の国に入ります。(マタイの福音書第21章31節)
こうしたことを公然とお語りになったことでキリストは、取税人、遊女、異邦人を神の祝福に与る資格のない人たちとして蔑んでいたパリサイ人と激しく対立することになります。
しかしキリストは、取税人や遊女、異邦人といった人たちが犯していた過ちや罪について、それを見て見ぬふりをしていたとか、大目に見ていたというのではありません。その逆です。罪のもたらす惨めさ、恐ろしさをキリストは知っていましたし、また人が罪の生活から離れることの難しさをも知っていました。
罪を責め立て、滅びを突きつけて脅すというような方法では人は悔い改めることができないことをご存知であるキリストは、深い慈しみをもって心の貧しい者たちを受け入れ、友になりました。そして、そうした人たちの罪を十字架にかかることで身に引き受け、罪のもたらす苦しみが心の貧しい者たちに及ぶことのないようにされたのです。
「心の貧しいは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」とは、十字架のみ苦しみを受けられたキリストだけが口にすることのできる罪人を救う祝福の宣言であったといえます。
この聖句をめぐって一つの思い出があります。以前、大阪の教会に在任していた頃のことです。教会の近所に野球場を備え、バラ園や噴水、遊具などのそろった大きな公園がありました。その公園の入り口付近でよく見かける人たちがいました。4名ほどの無精ひげを生やした男の人たちが午前九時ごろから、缶ビールを握って何やら話しをしている様子を横目に通り過ぎながら――この人たちはいったい仕事はどうしているのだろう……とか、公園の前でビールを飲んでばかりいてどんな暮らしをしているのだろう……と怪訝に思ったものでした。
しかし、こうした私の考え方と、その人たちへの態度は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」とお語りになった方の目には、正しいものではないのではないかと思うようになりました。それ以来、朝から缶ビールを嬉しそうに握っている人たちを見かけると私は、馴れ馴れしくならないように、しかし親しみを込めて「おはようございます。今日はいい天気ですね」と声をかけるようになりました。そうするうちに、向こうから先に挨拶をしてくれることも多くなりました。心の貧しい者同士、神の国・御国の市民としてのささやかな交流であったことを思います。
※子どもを会堂に連れて行った父親のエピソードは、ワルター・リュティ著「祝福される人々」(野崎卓道訳 新教出版社)からの引用加筆です。
