マタイの福音書第5章4節「悲しむ者のための慰め」

2026年7月主日礼拝説教

 キリストによって語られた『山上の説教』は先ず、8つの幸いを語ることによって始められます。その8つの幸いの中の第二の幸いについて、キリストはこうお語りになりました。

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(4節)

 この言葉をキリストの側にいた弟子たち、また、その周りにいた人々はどのように聞いていたのでしょうか。こう申しあげても良いでしょう。この第二の幸いについての理解に関しては、そのみ言葉をキリストから直接聞いていた弟子たちよりも私たちの方が有利であると。なぜ、そう言い得るのか。
 この時の弟子たちは、キリストがやがて十字架に磔となって死なれることを知りません。そのキリストが墓に葬られて三日目に復活されることも知りません。そのことを私たちは知っています。つまり、キリストが十字架による死の後に墓から復活されて死に対しての勝利者となられたという、当時の弟子たちが知らなかったことを私たちは知っているのです。
 このキリストが死に対する勝利者であるという一事こそは、第二の幸いが実現するための根拠であり、土台となっています。言い換えれば、キリストの死に対する勝利としての復活がなければ、第二の幸いは絵に描いた餅に過ぎないものとなってしまうのです。

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」

 悲しむということには、いろいろな理由による悲しみがありますが、この第二の幸いのなかで「悲しみ」が語られる時、それは、実際に涙を流して悲しむ具体的な一つの悲しみに集中しています。それは、愛する人が死んでしまったことによる悲しみです。
 この死別の悲しみは、いろいろある悲しみの中の一つというようなものではなくて、誰もが体験する、人生においてもっとも深い悲しみと言えるものです。この死別の悲しみのために涙を流している人を指し示すようにしてキリストは「悲しむ者は幸いです」とお語りになっているのです。

 このキリストの言葉から少し離れて、世間での「悲しみ」の扱い方について考えてみましょう。悲しみの扱いについては、時代によって大きな差異があります。今日では、悲しい時に、その悲しみを押さえつけてしまうのではなくて、素直に悲しんだ方が良いと言われるようになってきています。それに対して、戦前から戦中にかけて、戦争で家族を亡くしたことで涙を見せることは慎みを欠く行為として戒められていました。悲しみを堪えることが美徳とされていた時代でした。
 そういう美徳の名残が影響しているのでしょうか。今日でも、そしてクリスチャンの間ですらも、愛する人を亡くして悲しんでいる人に対して――救われて天国に行ったのだからそんなに悲しむものではない……と悲しむことをたしなめる人がいたりします。こうしたことは人としての心を歪め、傷つけることにもなりかねません。そういう過ちが認識されるようになってきている今日、「悲しんでよいのだよ、涙を流してよいのだよ」と言ってあげられる人が多くなってきていることはとても良いことです。

 人の死に際して涙を流して悲しむことは、心を持った人としてのしぜんな姿と言えます。それだけに、人の死を前にしても全く悲しみを感じなくなるということは、これは心がそうとう破壊されていることの危険信号と言えます。
 人に限らず、家族同様に生活していたペットが死んだときにでも涙を流すことがあります。ましてや親切にしてくれた人、お世話になった人、共に生きてきた家族が死んだときに深い悲しみを覚えるということは、心が健康であることの証しといえます。
 このように世間でも今日においては、悲しみの扱いが、人の心に寄り添うものになってきています。それゆえに、悲しむことを大切にし、悲しむことのできる幸いを理解する人も多いことでしょう。

 さて、キリストが「悲しむ者は幸いです」と語られるとき、今日、世間一般でも認められるようになってきた悲しむことの大切さ、悲しむことのできる幸いという意味も含んではいますが、それ以上のことをキリストはお語りになっていることに注目したいのです。
 キリストは「悲しむ者は幸いです」とお語りになるとき、その理由を悲しんでいるその人が「慰められるからです」と語っています。このキリストの言葉は、教えとか教訓のようなものではなく、「悲しんでいる人を、わたしが必ず慰める」という約束を語るものでありました。

 その約束を実現するための力をキリストは十字架のみ苦しみを受ける生前に三度、人々の目の前でお示しになったことがありました。

・会堂司ヤイロが重病を患っている娘を助けてほしいとキリストに懇願したとき、それを受け入れたキリストが娘の所に向かう途中、娘は息を引きとりました。その娘をキリストは生き返らせました。
・一人息子を亡くし、悲しみに暮れている母親がいました。キリストは、棺の中の息子を生き返らせました。
・友人ラザロが病気であるとの知らせを受けたキリストがベタニアの家に到着した時、既にラザロは死んで墓に葬られてい ました。そのラザロをキリストは生き返らせました。

 これら三つの出来事はいずれもキリストが死と戦われ、そして三人を生き返らせることによって、キリストが死の力に勝利する力をもっていることを証明するものとなっています。しかし、これらの出来事は、後に起こる決定的なことの予兆としての〝しるし〟に過ぎません。この後でキリストは他にも次々と死んだ人を生き返らせたわけではありませんし、生き返えることができた三人も不死身になったわけではなく、さいごは死んでいったからです。しかし、この3つの〝しるし〟から、「悲しむ者は幸いです」と語られている幸いの意味を見出すことができます。

 父親ヤイロ、一人息子の母親、ラザロの姉妹マルタとマリアは、愛する家族が死んでしまったとき深く悲しみました。その悲しみを3人は押さえつけてしまうことはしませんでしたし、悲しむことのできる心の健やかさもありました。ですから、今日の悲しみの扱い方からすれば3人は、悲しむことのできる幸いを持っていた人たちと言えるでしょう。しかし、そのことをキリストは幸いだと言っているわけではありません。
 この三人は、愛する家族を亡くしたとき深い悲しみに沈みこみましたが、キリストによって愛する者が生き返らせられたとき、紛れもない大いなる慰めを与えられました。この「慰め」は、悲しみを一時的に和らげるといった程度のものではありません。悲しみのために重く沈み込んでいた心が軽やかさを取り戻し、明るく生き生きとした心に変えられる、そのような慰めです。そして、慈しみ深く共にいてくださる神さまが、死の力からも守ってくださるという慰めです。ここに悲しんでいる者幸いをもたらす慰めの〝予兆〟を見ることができます。
 そして悲しんでいる者幸いをもたらす慰めを実現するための〝本体〟ともいうべき決定的な出来事となったのは、キリストご自身の復活でありました。このキリストの復活こそは、死の力を打ち砕いてしまう、死に対する勝利そのものでありました。そのことをパウロはこう述べています。

今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。(コリント人への手紙第15章20~21節)
「死は勝利に呑み込まれた。」
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(コリント人への手紙第15章54~57節)

 キリストの復活は、私たちにとって「初穂」としての意味を持ちます。初穂とは最初の収穫となる稲穂のことです。そして初穂と言うとき、必ずそれに続く収穫としての稲穂があります。
 キリストの復活を「初穂」と呼ぶのは、私たちもやがての日、キリストと同じように復活するという希望を込めてのことです。その希望の源であるキリストが私たちに慰めもたらしてくださるのです。そして、死に対する勝利者キリストに集中することで私たちの悲しみの質が変えられます。

 死んだその人のお元気だったときの笑顔を見ることができなくなる悲しみがあります。その声を聞くことのできなくなる悲しみがあります。その人の身体、その存在のすべてが消えてなくなってしまうことの悲しみがあります。そうした悲しみの現実に劣ることのない現実としてキリストによる慰めがあります。悲しみを悲しみのままで終わらせない希望が私たちの初穂であるキリストによって実現していることによる慰めです。

 そのことを使徒信条は「からだのよみがえり」と言いあらわしています。このからだのよみがえりには、愛する者との再会という希望が付随しています。
 勝利者キリストがいてくださることで、私たちは絶望の中で悲しむのではありません。喪失感に打ちひしがれて悲しむのでもありません。「からだのよみがえり」という希望の源であるキリストによって与えられる慰めを受けながら悲しむことができます。だから、そのように悲しむことができる者は幸いなのです。