詩篇第31篇15節「あなたの御手によって」

「私の時は、御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から 追い迫る者の手から。」(新改訳2017)

参考「わたしの時はあなたのみ手にあります」(口語訳)

 「御手」とは、神さまの手のことです。この「御手」という表現が、聖書には「御手をもって救ってください」「御手によって支えてください」といったように数多く記されています。
 また讃美歌にも、たとえば広く愛唱歌とされている『いつくしみ深き』には、「重荷のすべてを御手にゆだねよ」「愛の御手により支え、みちびく」とうたわれています。
 こうしたことは古くから、単に「神が守ってくださる」という言い方よりも「神さまが御手によって守ってくださる」という表現が、より人々の心を慰め、励ますものになっていたからでありましょう。

 ところで、素朴な疑問として、神さまの御手と言うけれども、神さまに私たちのような手があるのでしょうか。神さまの御手が私たちを助けてくださるとき、天の雲のあいだから長い手が伸びてくるわけでもありません。ならば御手によって救い出され、支えられ、守られるというとき、それは実際にはどういうことなのでしょうか。 

 そこで先ず、私たちがお互いに助け合ったり、支え合ったりするときに用いる手のことを考えてみたいのです。たとえば、泣いている小さな子どもをなだめるとき――だいじょうぶだよ、と声をかけてあげながら、子どもの頭を撫でてあげる手があります。自分の頭をやさしく撫でてくれている手の感触に、子どもは安心を覚えます。
 医師が患者を診るときの触診をする手があります。患部に触れる医師の手を感じながら患者には――このお医者さんにまかせておけば、という信頼が生まれてきます。
 お互いの友好を確かめ合うときに、また、励まし合うときに握手をする手があります。あるいは少々気まずい思いを抱いていたお互いが――これからは、また仲良くやりましょう、と互いに相手をゆるし受け入れ合うようなときにも手を握りあうことがあるでしょう。
 こうして相手を安心させたり励ましたりするときに、信頼の心を通わせ、友好と和解を確かめ合うときに、手は決して小さくない役割を果たしているのです。

 神さまは、悲しんで涙を流している人のために慰めを与えてくださいます。病のために不安や怖れを抱いている人の心に、安らかな信頼を与えてくださるのも神さまからの大いなる賜物です。また、神さまは、私たちの敵ではなく、味方であるご自身をあらわして励ましてくださいます。そのためにも、私たちを深い赦しと和解をもって受け入れてくださっています。こうした慰め、安らかな信頼、励まし、そして、赦しと和解は、どこからともなく降って湧いてくるのではありません。泣いている子どもを慰めるために手を差し伸べる者がいるように、私たちを慰めるために手を差し伸べてくださるお方が、すなわち神さまがおられます。その事実を聖書は「御手」という言葉を用いて示しているのです。

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 さて、そのような神さまの御手の中に「私の時」があると聖書は記しています。その言葉からは二通りの意味を聞きとることができます。その一つの意味は、「私の時」とは、私のこれまで生きてきた過去、現在、そして将来といった〈私の人生・生涯〉のことです。
 ――私の人生は、これからどうなるのだろうか……と不安を抱く人が、そのことを占いによって知ろうとすることがあるかもしれません。そこまでのことをしなくとも、行事の日どりを決めるときに、運勢はどうだろうとカレンダーに書いてある大安とか仏滅といった言葉を気にする人はいるかもしれません。しかし、詩篇はこう言うのです。
 ――私の人生は、占いの結果の中にあるのではありません。わたしの人生は、運勢や運命の中にあるのでもありません。私の人生は、神さまの御手の中にあります!

 「私の時」のもう一つの意味は、私が生きているときの〈いろいろな時〉ということです。そのことは、聖書原文の「時」という文字が複数形で書かれていることによって示されています。
 この詩篇が意識している〈いろいろな時〉とは、不安や恐れのなかにある時、望みを持つことができずに落ち込んでしまっているような困難や試練の時を指していると言うことができます。そのような時、私たちの心は支えを失って動揺します。

 都会の満員電車ではなく、人影のまばらな田舎のローカル列車に乗っているときに、空き缶が車中の床を転がって行く様子を目にすることがあります。その空き缶のように、困窮の中で支えられることなく、あっちに、こっちにと転がるように自分は生きてしまっているのではないだろうか……と思えてしまうことがある。しかし事実はそうではありません。空き缶のように、当てどもなく転がって生きてしまっているように思える時でも、私どもは神さまの御手の中にあるのです。

 そのような、私たちを支えてくださる神さまの御手とは、実際にはどのようなものなのでしょうか? わたしたちは神さまを見ることができません。その神さまの御手をどのように知ることができるというのでしょう。
 そこで、心の目によって、あるお方の手を見たいと思うのです。それはイエス・キリストの手です。神さまの御手とは、すなわちイエス・キリストの御手と言うことができるからです。
 私たちは子どもの頃、泣いていたときに、やさしく頭を撫でてくれた人の手を思い出すことができます。手を握って、あるいは肩を叩いて、励ましてくれた人の手を思い出すことができます。そのように、今、キリストの御手を思い起こしてみましょう。

 イエス・キリストの御手、それは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイによる福音書第11章28節)と語りながら、疲れた者を招く御手です。また、母親に連れて来られた幼子たちの頭に手を置いて祝福された御手があります。病に苦しむ人々に触れてお癒しになられた御手も想い出されます。そして、とりわけ、はっきりと思い起こしたいのは、罪を犯した人間と神さまとの関係を回復させるために、すなわち私たちの罪を赦すために手に釘を打たれて十字架に磔となられましたキリストの御手であります。
 このようなキリストの御手の中にこそ〈私の人生〉はあるのです。〈私の困難や苦しみの時〉は、得体の知れない運命なるものに翻弄されて、空き缶のように転がるようにしてあるのではなくて、キリストの御手の中にあります。そのキリストの御手が、私たちをあらゆる不安や恐れから守ってくださいます。

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 さいごに、神さまの御手、キリストの御手に支えられて生きる幸いを現実のものとしてゆくために大切なことを手短に申しあげましょう。それは、今回の詩篇の言葉そのものがはっきりと示してくれていることです。
 この詩篇の聖句は――私たち人間の時は、神の手の中にありますというふうに〈神について説明〉をしているのではありません。この詩篇の文脈を汲み取るならば「御手」とは「あなたの手」と言い換えることができます。「私の時は、あなたの手の中にあります」というこの聖句は、神さまに対して自分のことを「私」と言い、〈神さまを「あなた」と呼びかけている〉言葉なのです。
 助けを求めて呼びかける者の声を、神さまは決して無視なさりません。そしてキリストは必ず、その呼びかけを聞いていてくださいます。そのお方に向かって朝、起床したときに、あるいは夜、就寝するときに、また、いろいろな困難の只中にある時に「私の時は、あなたの御手の中にあります」と、天に向けて呼びかけることができるならば、それは、神さまに対する生きた信仰の告白となり、生ける神さまに対する讃美となり、そして祈りとなるのです。

祈り
イエス・キリストの父、そして、私どもの父である神さま。
私どもは、青年期にあっては、自分の将来について、
壮年期にあっては、子どもたちの将来について、 
老年期にあっては、自分の健康について、確かさを求めます。安定を求めます。
しかし、私どもは、人生に確かさを見出せずに、
実にしばしば、思いわずらい、不安になります。
しかし、本当は確かな支えがあります。
私の人生は、そして、あの事、この事に立ち向かって行かねばならない、
私のさまざまな時は、あなたの御手の中にあります。
あなたの御手にほかならないキリストの御手の温もりを覚えさせてください。
あなたの御手に支えられて生きる幸いを、日々新しく、豊かにしてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。